このサイトでは諸葛亮孔明としていますが、中国の場合、性・名もしくは姓・字で呼ぶのが正しい呼び方です。 なので諸葛亮の場合、諸葛亮もしくは諸葛孔明というのが正しい呼び方です。読者の方からご指摘をいただきましたので最初に書いておきます。
このサイトでは三国志一の天才軍師諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を中心に、諸葛亮孔明の人生では彼の一生を、諸葛亮孔明と戦争では 彼が戦った戦争を、諸葛亮孔明と人物では同じ時代に生きた人物を、三国志をまったく知らない人にも、できるだけ分かりやすく紹介しています。 文章は下手ですが (スイマセン(汗))。それぞれへのリンクは下にあります。そこまで飛ぶ。ここには最低限知っておいてほしいことでかたくるしいことが書いてありますが、まあ適当に読んでおいてください(読まなくてもいいですよ(笑))。 このサイトを見ればきっとあなたも三国志の世界に興味をもつでしょう。
中国の歴史の中の漢(かん)と晋(しん)の間、魏、呉、蜀の三国が並立していた時代。漢の末期、 悪徳な役人によって漢王朝は腐敗していました。そんな時代の中、張角(ちょうかく)という人物が仙人から妖術の書を授かり、 腐敗した漢王朝を倒すために黄巾の乱を起こします。漢王朝はこの乱を鎮めますが、討伐で活躍した豪族たちが 力を握り、漢王朝の権威はますます弱くなります。その混乱の中から、英雄たちが現れ、その中でも能力と時の運を兼ね備えた三人の人物が、 それぞれ魏、呉、蜀を建国しました。この時代を三国時代といいます。この時代にはたくさんの人物が 活躍しました。その中でも特に有名なのが諸葛亮孔明です。諸葛亮孔明は蜀の中心的な人物です。もしも諸葛亮孔明の力がなければ、 過去にもしもはないんですが、おそらくは天下は魏、呉、蜀にわかれずもっと早くに統一されたでしょう。
中国の歴史の中の西晋(せいしん)時代に書かれた紀伝体の歴史書です。紀伝体とは東アジアの歴史書の書式の一つで、 本紀(ほんぎ)、世家(せいか)、列伝(れつでん)、志(し)、表(ひょう)などから構成されています。なんじゃそりゃ!と思うかもしれませんが、あまり重要ではないので難しく 考えず、まーそんなものかぐらいで流してください。作者は陳寿(ちんじゅ)という人で、三国志は三国時代を扱う歴史書としては唯一、中国の 二十四史の一つに数えられています。二十四史とは中国の清(しん)の王朝の皇帝が定めた正史(せいし)二十四書のことです。 正史とは主に国家によって編集された王朝の歴史書のことです。三国志は「魏国志」30巻、「蜀国志」15巻、「呉国志」20巻の 計65巻からなっています。三国志は魏を正統な王朝としています。
明の時代に書かれた中国の歴史小説で、四大奇書(しだいきしょ) の一つに数えられます。四大奇書とは、中国で元代-明代に書かれた四つの優れた長編小説のことです。「奇書」とは「世に稀なほど卓越した書物」の意味です。 奇妙な書ではありません。日本では四大奇書といえば『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』、『金瓶梅』 の四つを指しますが、『金瓶梅』の代わりに『紅楼夢』を入れる説もあります。三国志演義は施耐庵 、あるいは羅貫中が三国時代に関する 講談をもとに創作されたとされています。三国志演義は小説なので、はなしをおもしろくするために信憑性とはべつにストーリーを組み立てています。 そのため内容のすべてが正しいとは限りません。また三国志演義の作者は蜀を正統な国としているのでかなり蜀びいきです。 そのため蜀の主役であった諸葛亮孔明のすごさを少し誇張表現しているかもしれません、ていうかかなり誇張表現しています。 諸葛亮孔明より司馬懿仲達(しばいちゅうたつ)のほうが凄かったなんていう人もいるくらいです。このサイトはおもに三国志演義の情報を もとにしているので、先にも書いたとおり内容のすべてが正しいとは限りません。ですが三国志の時代を反映しています。
人生のすべては諸葛亮孔明の人生に詳しく書いてありますが、ここではその最初の部分を載せておきます。ちなみに
ここでは人物の名前などは太字になっているだけですが、諸葛亮孔明と人生の中ではその人物の紹介文へのリンクとなっています。諸葛亮と孔明を順々にかきましたが意味はありません(笑)。
司馬徽(しばき 別名 水鏡先生)に臥龍(がりゅう)または伏龍(ふくりゅう)と称されました。
諸葛亮は次男で、兄の名は瑾(きん)といって洛陽(らくよう 漢の都)の大学で学んでいる秀才でした。
弟は均(きん)といいました。ふたりともきんです(笑)。父親が役人だったので比較的恵まれた家庭でした。
母親は早くに亡くなり、父珪(けい)は後妻をもらいました。その父も孔明が十歳になったころこの世を去りました。
そんな時兄の瑾が洛陽から帰ってきました。瑾は
黄巾賊(こうきんぞく)の大乱が洛陽にまでおよんできたことをつげました。
このため諸葛一家は江東(こうとう 地方名)の叔父、諸葛玄(げん)
をたよって避難することにしました。自然の猛威などがありましたが、
なんとか諸葛一家は叔父の玄のところにたどりつきました。ここで諸葛亮は半年ほどすごしました。
ところが叔父の玄は劉表(りゅうひょう)の招きで
荊州(けいしゅう 地方名)へ行くことになりました。この荊州は三国時代の特に重要な地で、この地をめぐってたくさんの戦がおこりました。
しかし兄の瑾は長義母をつれて孫策(そんさく)
のもとで大きくのびようとする呉にむかいました。
荊州での生活が一年つずいたころ、叔父の玄にかわって予章(よしょう 地名)を
治めていた周術(しゅうじゅつ)が亡くなったため、叔父の玄はふたたび予章の太守(一定の領地を治める人)に命じられました。
ところが任地につくと、そこには漢朝から予章の太守に任命された失晧(しゅこう)というものがきていました。
お互い太守になりたかったので戦争になりました。しかし、叔父の玄は戦に敗れました。
そのため、玄と孔明たちは荊州の劉表(りゅうひょう)のもとにみをよせました。
玄は戦場で死んだ可能性もあります。
その後諸葛亮は荊州ですごし、十七歳のとき大学者、石とうの門をたたきました。
ここには石とうの名を慕って各地からすぐれた門人が集まっていました。
徐庶(じょしょ)もその一人でした。
ここで孔明は頭角をあらわしました。その才は群をぬき、二十歳になるころにはそこで学ぶこともなくなっていました。
諸葛亮はその年で弟の均とともに、隆中(りゅうちゅう 地名)の山中にある草廬(そうろ)にひきこもって、
農耕に従事しながら臥龍(伏龍)先生としょうして、晴耕雨読の生活をしはじめました。それ以後孔明のところをたずねてくる友人はすくなくなりました。
たずねてくるものは諸葛亮のおそろしいほどの才能をみぬいたものたちだけでした。
またこの頃孔明は結婚しました。相手は河南の名士黄承彦(こうしょうげん)の娘でした。
その娘は色は黒く髪は黄で醜い容貌で、「諸葛亮の嫁選びのまねはすまいぞ」といわれるほどでしたが、天文地理兵法に秀でた才女でした。
コーエーの三国無双シリーズでは月英(げつえい)として登場します。
建安十二年(207)徐庶は母が曹操(そうそう)の城に招かれていたので、 母に会うため劉備(りゅうび)のもとから曹操のところへ向かおうとしていました。 見送りにきた劉備に徐庶は孔明をたずねるようにいいました。そして劉備は 隆中にいる諸葛亮をたずねてきました。しかし孔明はでかけていて草廬にはいませんでした。 しかし劉備はあきらめません。 しばらくして、吹雪が吹き荒れる日、諸葛亮在宅とのしらせをうけた 劉備はもういちど孔明をたずねます。しかし、草廬にいたのは弟の均でした。 劉備はまたしても諸葛亮にあえず、どうして自分は孔明と縁がうすいのかとなげきながら、 自分の思いを書い手紙を弟の均にあずけてかえりました。 それからしばらくして劉備はまた孔明をたずねました。そして今度は諸葛亮は草廬にいました。 しかし孔明は昼寝をしていました。ですが劉備は起こそうとせずに待っていました。 諸葛亮が起きて、ようやく劉備と孔明は対面しました。劉備は、 孔子(こうし 儒教の祖)の例などをだし、天下万民のために立ち上がってくださいとたのみます。すると 諸葛亮は有名な天下三分の計を劉備にはなします。 大きくなりすぎた魏の曹操を討つのは不可能。 そして三代にわたって発展してきた呉を奪うこともまた不可能。 ならば、そのどちらにも属していない荊州と益州(えきしゅう のちの蜀)に勢力を興し国を三つにわけ、 その後、曹操の野心を砕く。これが孔明の天下三分の計でした。これを聞いた 劉備は「これからもそばで私にお教えください。」といいます。しかし諸葛亮は初めことわります。 しかし劉備の国を思う姿に心をうたれ、ついに劉備に 協力することをきめ出廬(しゅつろ)しました。これが三顧(さんこ)の礼です。このとき孔明は二十七歳でした。しかしこの話は三国志演義の話で、 国の行く末を案じた諸葛亮が自ら劉備を訪ねたという話もあります。続きは諸葛亮孔明の人生で。
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