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夏候惇元譲<かこうとん・げんじょう>




姓は夏侯、名は惇、字は元譲。曹操(そうそう)の片腕として活躍した武将。
14歳のとき夏侯惇の先生を侮辱した者がいました。夏侯惇は怒ってその男を殺害してしまいました。その気性の激しさは近隣の人々を恐れさせていました。 曹操の旗揚げのときに従兄弟の夏候淵(かこうえん)と一緒に軍に参加しました。 曹操からの信頼が厚く寝室に入ることを許されているほどでした。

曹操が父の恨みを晴らすため徐州(じょしゅう 地方名)を攻めていると、その隙に 曹操の本拠地えん州(地方名)呂布(りょふ)に攻め込まれます。 曹操徐州を攻めることをあきらめえん州に引き返して呂布と戦います。 いちよう呂布を撃退しましたが、滅ぼすことはできませんでした。徐州の太守は曹操呂布と戦っている間に劉備(りゅうび)になっていました。追い払われた 呂布劉備の治める徐州に身を寄せました。曹操は これに危機感を抱き二人を引き裂くべく策略をめぐらします。これが成功し劉備呂布は 戦になりました。が、なぜか仲直りし呂布徐州の太守となって劉備徐州の城のうちの 一つ小沛(しょうはい 地名)の太守となってしまいました。その後曹操はまわりの敵を着々と滅ぼしながら 密かに劉備と手を組みました。劉備も強敵でしたが、まずは呂布を 滅ぼそうとしたのです。しかしそのことが呂布にばれてしまいます。ほとんど兵を持っていなかった劉備 は危機に陥ります。そこで曹操夏侯惇に急いで劉備を助けに行くよう命じます。 夏侯惇はいそいで徐州に向かい呂布軍と対決します。しかし戦の最中飛んできた矢が夏侯惇の左目に当たってしまいます。 そのとき夏侯惇は矢を目玉ごと抜き「親からもらったものは捨てられん」と言って目玉を食らってしまいました。この話は正史には乗っていませんが。 そしてすぐに矢を放った敵を刺し殺しました。驚きです。余談ですが、このことから「盲夏侯」というあだ名をつけられます。夏侯惇はこのあだ名を嫌い、鏡を見ては 腹を立て鏡を地面に投げつけて割っていたといいます。目を矢で射られた体では戦はできないので 夏侯惇軍は一時退却します。しかしその間に呂布小沛の城を落としてしまいます。劉備 は消息不明になってしまいました。夏侯惇は「この目の怪我さえなければ」と言って悔やみますが後の祭りでした。ですがその後劉備も 見つかり、曹操の本軍も到着しました。そして呂布を捕らえ首を刎ねることができました。(できましたって残酷・・)。

しかしその後劉備がついに本性を表したというか、本来の目的のために行動をはじめ敵対します。 そして曹操に追われに追われた劉備荊州(けいしゅう 地方名)に逃げつきます。そして荊州の 支配者劉表(りゅうひょう)から信頼され、新野(しんや 地名)というところの統治を任されていました。そこで劉備は天才軍師 諸葛亮(しょかつりょう)を得ます。それを聞いた夏侯惇曹操に「劉備 をこのまま放っておいたら後々厄介な存在になります。今のうちにたたき伏せておくべきです」といいます。しかしこれにはまわりから反対意見がでます。 しかしそれでも夏侯惇は「天才だろうと二十を過ぎたばかりの青二才。拙者の目から見ればまだ赤子のようなものです」と言って曹操を 説得します。曹操も「よしその心意気を買った」と言って夏侯惇に十万の兵を与えました。しかし 夏侯惇は諸葛亮の計略の前に敗れてしまいます。これを恥じた夏侯惇帰ってから自分の体を部下に 縛らせてから曹操に会い「大口をたたいての惨敗。会わせる顔もありません。お好きなように成敗ください」と言います。 ですが曹操は「お前も優れた将だ。後の機会に今回の恥をそそげ」と言って夏侯惇を許しました。夏侯惇は改めて 曹操の人柄に感服しました。

その後も夏侯惇曹操の腹心として活躍します。そのへんは曹操のところを 見てください。夏侯惇曹操配下の名将とイメージです。ですがそれは演技に書いてあることです。正史では戦での活躍もほとんど 書かれておらず、地味な記述ばかりです。ですが夏侯惇への曹操の信頼は疑う余地も無く、また暇を見つけては講師を招いて講義を 聞いたりするなど勉強熱心でした。時には兵と一緒に土嚢(どのう)を運んだり、農業を手伝ったりもしました。そんな夏侯惇ですが曹操の 死後、その後を追うように病気にかかり亡くなりました。


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