性は魯、名は粛、字は子敬。周瑜(しゅうゆ)亡き後の呉(ご)を支えた名将。
魯粛は裕福な家庭に生まれました。ですが家のことはほったらかしにして、困った人々を助けたり、地方の名士と親交を深めたりしていました。
周瑜とも交わってしました。その後袁術(えんじゅつ)の配下になった魯粛ですが、そのやり方を見ているととてもついてはいけません。
そして魯粛はこの頃勢力を広げていた孫策(そんさく)に仕えました。孫策は早くに死んでしまい、
孫権(そんけん)が後を継ぎました。魯粛は孫権の傍にいて進言する参謀のような役割につきました。
その後曹操(そうそう)の勢力が次第に伸びていきました。北方を完全に制圧した曹操 は次は南方攻略をはじめました。まず荊州(けいしゅう 地方名)を支配した曹操は呉に 手紙を送ってきました。そこには自分と協力して劉備(りゅうび 曹操の生涯のライバル)を討つか、それとも敵対して自分に滅ぼされるかを 選べという、なかば脅迫が書いてありました。孫権はどうしようか迷います。そこで魯粛は「私が劉備殿 のところへ行って、密かに同盟を結んでまいります」と言います。孫権が「そんなことをしては曹操が 怒って攻めてくるのではないか?」と聞くと魯粛は「いえ、劉備殿の勢力が弱ったからこそ曹操は 全兵力を呉に向けることができるのです。ここで殿が劉備殿と結んで彼を援助すれば 曹操は背後を突かれることを恐れて思うように呉に攻め入ることができませぬ」と言いました。 孫権もそれならば行ってこいということで魯粛を劉備のところに派遣しました。 この後赤壁(せきへき)の戦いが起こり孫権たちは大勝します。 詳しくはそこをご覧ください。その後の曹操が撤退した後に残った荊州の土地をめぐって周瑜と 劉備(といってもほとんど諸葛亮(しょかつりょう))が争います。諸葛亮 にいいよに翻弄されて荊州の土地を奪われた周瑜は怒って劉備と戦おうとしますが、 魯粛の説得などでおさまりました。詳しくはここ。この後も魯粛は劉備と 呉との間をとりもつ役として諸葛亮と周瑜の間にはさまれながらも なんとか戦争だけは起こらないように奮闘します。ですが最終的には周瑜が荊州を通過するふりをして攻めようとしますが 諸葛亮に見破られ周瑜は死んでしまいます。くわしくは諸葛亮の人生 をご覧ください。周瑜亡き後はその後継者になります。魯粛は長引いた戦いで疲弊した国力を回復し、 劉備との同盟も継続させました。最後まで国のために働いた魯粛は46歳で亡くなりました。