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周瑜公瑾<しゅうゆ・こうきん>




性は周、名は瑜、字は公瑾。年少紅顔で音楽にも精通していた周瑜を人々は美周朗と呼びました。
幼い頃に出会った同い年の
孫策(そんさく)と義兄弟の契りを結んで、孫策 のことを兄者と呼んでいた。時がたち、孫策が江東討伐に向かうとき彼の軍に加わりました。 このとき周瑜孫策に野に隠れている二人の賢人、張昭(ちょうしょう)張紘(ちょうこう) を見方につけるようにいいます。そして孫策周瑜の活躍もあり江東(こうとう)を制圧します。 孫策荊州(けいしゅう 地方名)奪取のため周瑜江夏(こうか 地名)の太守にしました。 このとき喬公(きょうこう)という名家の二女を知りました。この姉妹はともに絶世の美女で「喬公の二名花」と 呼ばれていました。孫策は姉の大喬(たいきょう)を妃とし、周瑜は妹の小喬(しょうきょう)を妻としました。 しかし孫策は「国内の問題は張昭に問え。外からの混乱は周瑜に問え」と遺言を残して 他界します。孫策のあとは弟の孫権(そんけん)が 継ぎました。周瑜は改めて忠誠を誓います。そして魯粛(ろしゅく)を抜擢しました。

その後北方の覇者曹操(そうそう)荊州を制圧し、次は に迫ってきました。国内は開戦派と降伏派に別れ孫権 はどうしようか悩んでいました。そして母から言われて孫策の遺言を思い出した孫権周瑜を呼びます。その頃周瑜のところには魯粛諸葛亮(しょかつりょう) を伴って来ていました。周瑜は最初降伏と言って士気をためしていました。しかし諸葛亮曹操二喬(大喬と小喬)をほしがっているなどと言いました。周瑜曹操のおごりたかぶった態度に怒って開戦を決意します。そして孫権の もとに行って、「絶対勝てます」といい開戦を決意させました。そしてその言葉通り曹操軍を撃退します。歴史にのこる 赤壁(せきへき)の戦いです。曹操軍が撤退した後の荊州の城をめぐって、 ともに曹操を撃退した劉備(りゅうび)が近くまで来ていました。 周瑜劉備荊州の地を横取りしないようの、釘をさしにいきます。 しかし諸葛亮にのせられ、荊州をとるのが呉軍の手に余ったら、劉備が 自由に荊州をとってもいいという約束をしてしまいます。まあ周瑜本人は赤壁の戦いに勝利した 自軍の士気は最高だったので、そんなことになるはずがないと思っていました。そしてまず南郡の城を攻めた周瑜ですが なかなかうまくいきません。そして敵の罠にはまり矢傷を受けてしまいます。その傷は怒ったりして感傷がたかぶると高熱がでる病でした。 そのため曹操軍周瑜を挑発して怒らせようとします。そこで周瑜はわざと怒ったふりをして敵のまえで倒れました。 そして自分が死んだと思わせました。調子に乗った曹操軍は夜襲をかけてきました。周瑜はそれを伏兵で打ち破り ようやく曹操軍を撃退します。そして城に入ろうとします。しかし城にはなぜか劉備軍がいました。そして趙雲(ちょううん) が現れ「周提督が手に余られているようなので、この城はわれわれが占領した」といいました。さらに他の荊州の城も劉備軍に占領されていました。 周瑜は怒って倒れますが、劉備と戦をしようとします。しかし魯粛が とりあえず話しを聞いてくるというので、それまで待つことにしました。帰ってきた魯粛は 「劉備のところには荊州の前の統治者劉表(りゅうひょう)の長男劉g(りゅうき)が いて、どうすることもできません。しかし劉gは病気で今にも亡くなりそうだったので、そのときまでお待ちください」といいました。 周瑜がどうしようか悩んでいると、孫権から急いで国に引き返すよう手紙が来ました。 周瑜はしかたなくに帰りました。

しばらくして劉gが病に没します。そこですかさず魯粛劉備 のところへ向かいます。しかし劉備荊州を返そうとせず、諸葛亮が 「荊州はわが君が借りているということにしてください。後日をとったらそのときはお返しいたす」 といいました。魯粛はしかたなく帰ってきて周瑜にそのことを話します。 魯粛の人のよさに周瑜はあきれて、ある作戦を考えます。 劉備孫権の妹を結婚させ、式を であげさせ、隙をみて劉備を殺すというものでした。しかし失敗します。そこで今度は 劉備に留めておいて、美女や酒などで骨抜きにし、 劉備の優れた家来たちが劉備を見限って去っていくのを待つことにします。 しかしこれも失敗します。劉備が孫夫人を連れて から逃げ出したので追いかけた周瑜ですが、途中に兵が伏せられていて とても劉備を討ち取るどころではなく、逆に自分の兵が討たれてしまいました。そして 劉備軍の兵に「さては見事な周瑜の妙計。夫人はとられ兵は討たれ」と侮辱されます。あまりの怒りに病気が再発した周瑜に帰ります。しばらくして今度こそ話をつけるということで魯粛劉備のところに向かいます。そして荊州の話をすると劉備は泣き出します。 そしてまた諸葛亮がしゃべりだします。「わが君はをとって 荊州を返さなければならないと思っているが、の君主劉璋(りゅうしょう)はわが君と 同族。その劉璋を攻めれば世間はツバを吐いてわが君をののしるでしょう」。魯粛はまた 何も言えずに引き返してきます。そこで周瑜はまた作戦を考えます。劉備のために をとると称して荊州を通過するふりをし、そのときに攻め落とす「道を借りて草を枯らす」 という計でした。孫権もこの策を聞いて「さすがは周瑜」といって喜び、即座に 実行します。しかし諸葛亮はそんなことは読んでいました。周瑜荊州の城に着くと 何の迎えもなく、城門がしまっています。周瑜の家来が城門を開けるようにいうと趙雲が現れ 「周提督。何しに参った」といいました。周瑜が「何しに参ったとは失礼な。われわれはおまえたちのために をとりにきたのではないか」といいます。すると趙雲は 「ふふふ。子供ならいざ知らず。わが軍師がその胎を読めぬと思っているのか。道を借りて草を枯らすの計、軍師はお見通しじゃ。 お望みなら一戦を交えてもいいぞ」」といい、城壁の上に兵が現れました。周瑜は計られた気づき退却しようとします。 しかしそのとき四方から劉備軍が攻めてきました。周瑜は怒って「またしても孔明(諸葛亮)に してやられたのか」といい血を吐いて倒れます。そして見方の船に運ばれた周瑜ですがそこに諸葛亮 から使者が来て手紙を渡していきました。その手紙を見た周瑜は、自分の心理が完全に諸葛亮に読まれて いることを知ります。そして「人生とは無情だ。天はこの周瑜を地上に生まれさせながら何故孔明まで生まれさせたのだ」と いって大量の血をはき、最後の力で自分の後任は魯粛が良いという遺書を書いて、死にました。 このとき周瑜三十六歳、の大黒柱の早すぎる死でした。


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