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司馬懿仲達<しばい・ちゅうたつ>




性は司馬、名は懿、字は仲達。曹一族の国に四代にわたって仕えました。
司馬懿が生まれた当時、司馬氏は地方の名門でした。そのため父司馬防は結構位の高い役人でした。司馬防には八人の子がいました。 その次男が司馬懿でした。二十三歳で役人になった司馬懿は最初地方で働いていましたが、曹操(そうそう) の部下に推挙され曹操に仕えることになりました。そして次第に頭角をあらわしていきました。

劉備(りゅうび)が漢中王を名乗ると曹操劉備を攻めようとします。司馬懿は「はいまや一大強国です。 それに今は日の出の勢いでございます。まずはと戦わせて力が弱ってから攻めるべきです」と進言します。 曹操はこの安を採用しに使者を送ります。 これが結果的には劉備から荊州(けいしゅう 地方名)を任されていた関羽(かんう) の死につながります。関羽の首をはねた孫権(そんけん)劉備の復讐を恐れました。 そこで孫権関羽の首を曹操に 送ってきました。劉備の怒りの矛先を曹操に向けようとしたのです。 曹操はそうとも知らず関羽の首を見ると、今まで恐ろしかった 脅威の死に安堵しました。そんな曹操司馬懿は「殿、喜んでいる場合ではありませぬ。 これはが送ってきた大きな禍です。関羽の首を討った首謀者は殿だと 劉備に思わせる策だと思われませぬか」と言いました。曹操は それを聞いて首をにつき返そうとします。すると司馬懿は「殿、それでは殿の度量が小さくなりまする。 この首をねんごろに葬るのです。国葬のような盛大さで。禍を転じてに恩を売るのです」と言います。 曹操は「見事じゃ」と言ってその策を採用し、関羽の葬式を 国葬としました。

その後曹操が亡くなり長男の曹丕(そうひ)があとを継ぎました。 さらにその後劉備が亡くなります。司馬懿曹丕に 「幼い帝が継いだばかりのを今こそ攻めるべきです」と言って、五つの進路からそれぞれ十万、合計五十万の兵で を攻める策を進言します。曹丕はこの策を実行します。しかし 諸葛亮(しょかつりょう)の前に総敗北します。は同盟を 結んでいましたが、この作戦に参加した呉軍は戦に参加せず様子を見ていました。そしてさらにこの戦で魏軍側が総敗北すると と同盟を結びます。怒った曹丕に攻め込みます。しかし大敗北を喫し曹丕赤壁(せきへき)の戦い にも匹敵する大損害をだします。その後しばらくしてから曹丕は病に倒れます。曹丕司馬懿他 二人に、自分の子曹えいを頼んだと言い残してあっけなく息を引き取ります。新しい帝がついたことで臣下の職も改革がなされました。 司馬懿はこのときに自分に西涼(せいりょう 地名)の守りを任せてくれるよう曹えいに頼みました。これは聞き届けられ司馬懿西涼の守りにつきます。西涼は辺境の土地で他の臣たちは司馬懿は物好きなことだなどと言いました。もちろん司馬懿西涼が 好きで守りについたのではなく、西涼を守ることで密かにの動きを封じるつもりでした。 司馬懿西涼の守りについたと知った諸葛亮は、司馬懿を失脚させるべく司馬懿が謀反を たくらんでいるという噂をに流しました。さらにのある城の城門に打倒魏朝の文が 貼られました。幼かった曹えいはこの策にひっかかり、司馬懿は官職をすべて奪われ郷里に追放されました。司馬懿を失脚させることに 成功した諸葛亮はすぐに北伐(を討つこと)を開始します。 魏軍は何度も大敗北を喫し、の西の要所長安(ちょうあん 地名)が危なくなります。 ですがの文官たちも、バカばかりではありません。文官の一人が諸葛亮と 戦えるのは司馬懿だけで、前の司馬懿謀反の噂はの計略だったに違いないと曹えいに 言います。こうして司馬懿はもとの官職に戻りさらにとの戦いの都督に任じられました。 司馬懿曹えいと会うために行軍していると、もとの将で前に降伏してきた孟達(もうたつ) が謀反をたくらんでいるという知らせを受けます。司馬懿は急きょ行き先を変更し孟達の謀反を防ぐため通常の倍以上の速さで行軍しました。 途中徐晃(じょこう)と会い、彼も急いで孟達のところに向かいました。 しかし孟達の謀反は防いだものの徐晃孟達に討たれてしまいました。 その後司馬懿は長安で曹えいと会い、正式に任命を受けました。

戦場についた司馬懿はまず蜀軍の食料輸送路の街亭(がいてい 地名)に目をつけます。 諸葛亮に気づかれないよう街亭に向かいます。しかし諸葛亮はそれを読んでいて 街亭にはすでに蜀軍がいました。街亭の道は細く大軍で通行できないため、守られると手がつけられません。司馬懿蜀軍街亭にすでにいることを知ると「諸葛亮の智謀はわしの及ぶところではない」と嘆きます。 しかし偵察にいった息子の司馬昭(しばしょう)街亭は簡単に奪えると言います。司馬昭の話では蜀軍街亭の道筋を押さえておらず 山に陣を張っているということでした。司馬懿は信じられず自ら偵察に行きます。すると司馬昭の言うとおりで、蜀軍は道筋を押さえておらず 山の上に陣を張っていて、道のそばに本陣から分かれて敵将王平(おうへい)が五千の兵で陣を張っているだけでした。 さらに偵察していると山頂には水が無いことがわかります。そこで次の日司馬懿は山を包囲します。蜀軍の総大将馬謖(ばしょく) は逆落しをしてきます。司馬懿は火で敵の進路を防ぎ弓矢を放ち馬謖の逆落しを防ぎます。本陣に火の手が上がるのを見た王平が 救援に来ますが手はうってあり、張こう(ちょうこう)の兵に挟撃された王平軍は陣に引き返します。 そのうち水が無くなった馬謖軍の兵は次々と投降してきます。そこで馬謖は魏軍の包囲を突破して近くの城に向かおうとします。 司馬懿馬謖が山を下りやすいように一箇所道を開けておきました。そして馬謖は予想通りその道を通りました。 馬謖軍が完全に包囲の中に入ったと同時に司馬懿は合図を出し馬謖軍を袋叩きにします。水も飲めず半病人の馬謖軍はまさに手ごろな 餌食でした。そこへ諸葛亮がもしものときのために待機させていた魏延(ぎえん)高翔(こうしょう) が救援にあらわれました。司馬懿はこれにも手はうってありました。さらに王平の隊も救援に来ました。両軍は三日間にわたり激戦を続けました。 この戦で蜀軍はかなりの被害を受けます。そして蜀軍街亭をあきらめ漢中まではとられないように退却していきました。 食料輸送路をとられた諸葛亮は全軍に総退却を命じます。司馬懿は追撃しました。そして諸葛亮 のいる城にたどり着きました。すると城門は開いており兵の姿は見えず、城壁の上では諸葛亮が琴を演奏していました。 司馬懿は何か計略があると考え退却します。そして帰りの道にはやはり伏兵がいました。しかし伏兵は山の中から叫び声を上げるだけで攻めてきません。 蜀軍の伏兵がどれだけいるかわからなかったので兵士たちはおびえはじめました。さらに一人がおびえたことで次々に伝染していき次第には全軍が武器も投げ捨てて 逃げ出しました。その後司馬懿蜀軍が退却したのを確認してから諸葛亮にとられた城を取り返しました。 そこの住人から話を聞くと諸葛亮が琴を演奏していたとき城内には何の仕掛けもなく、伏兵もわずか三千で戦をする気は無かった と聞きます。司馬懿は「今回の戦には私が勝った。しかし私の智謀はまだまだ諸葛亮の足元にも及ばぬ」と嘆くのでした。

その後諸葛亮はまた攻めてきました。曹真(そうしん)が自分が迎撃にあたりたいと言ったので、曹えい は彼を総大将にして迎撃にあたらせました。しかし曹真は何度も敗れます。の城では曹真では 諸葛亮の相手ではないなどということがささやかれるようになりました。曹えい司馬懿にどうしようか 相談します。そこで司馬懿蜀軍の弱点である食料補給路を閉じればいいと言います。曹えいはそれを早速曹真に伝えます。 曹真はそれを受けて蜀軍の食料補給路を遮断し、敵の挑発にも我慢しじっと陣に閉じこもっていました。ですが曹真蜀軍を倒してみたかったのか、 偽の食料を輸送して蜀軍がそれを狙って出てきたところを討とうとします。しかし諸葛亮に見破られ逆に大打撃を与えられます。 曹真はあきらめひたすら守りを固めました。そしてしばらくして兵糧がもたないとみた蜀軍は退却していきました。曹真は心労が重なったのか この戦の後倒れ養生のため後の守りを任せ国に帰りました。しばらくして諸葛亮はまた攻めてきます。 曹真はまだ回復していなかったため司馬懿が迎撃にあたりました。ここに司馬懿諸葛亮の初の正面対決が はじまりました。ですが戦では司馬懿諸葛亮に裏をかかれっぱなしでした。すると蜀軍が急に退却を始めました。 司馬懿は怪しいとかんじ追撃はしませんでした。ですが部下の張こうの必死の説得にまけ追撃することにしました。 しかしこれは諸葛亮の罠で裏をかかれた魏軍は本陣までとられそうになります。ですが何とか本陣だけは守りきりました。 司馬懿は部下に「諸葛亮の恐ろしさがよくわかっただろう。以後勝手なまねは許さん」と言って守りを固めました。 しばらくすると知らない間に蜀軍が退却していました。偵察の話によると諸葛亮が病気に倒れたらしいということでした。 司馬懿は守りを各将にまかせ自分はに引き返しました。諸葛亮はその後も何度も 攻めてきますが、司馬懿は危なげながらもそれをよく防ぎます。この二人の戦いは諸葛亮のところに詳しく書いてあります。 そしてついに強敵諸葛亮が亡くなります。天文を見て諸葛亮が死んだと思った司馬懿は 追撃を開始します。今までどんなに挑発されても耐えていた魏軍の将兵は怒涛のように追撃します。すると途中敵の伏兵がいました。おどろいた司馬懿が 辺りを見回すとなんとそこには諸葛亮の姿がありました。司馬懿は驚いて逃げまくります。今まで 諸葛亮に何度も恐ろしい目にあわされた司馬懿は心のそこから諸葛亮を恐れていました。 そして司馬懿は逃げまくったところで追いついてきた部下に全軍退却を命じます。陣に引き上げた司馬懿に、あの諸葛亮 はおそらく人形だろうという情報が入ります。司馬懿はやはり天文のとおり諸葛亮は死んだのだと思い、もう一度追撃します。 しかし司馬懿蜀軍に追いつくことはできませんでした。

その後曹えいが死に幼い曹芳(そうほう)が即位しました。曹真の子曹爽(そうそう)は帝が幼いのをいいことに 司馬懿を位は高いが何の権限も持たない名誉職にまつりあげました。そして自らが政治の実権を握りやりたい放題をしていました。そこで司馬懿 は重い病にかかったふりをします。油断ならない司馬懿が病の床に伏していると聞いた曹爽は安心して狩に出かけました。司馬懿は その隙に昔の家来を集めクーデターを決行します。そして曹爽一族を処刑します。この功で司馬懿丞相(じょうしょう 軍の最高責任者) になり司馬一族の時代が訪れます。その後司馬懿は本当の病にかかります。息子の二人は頭が良かったので安心して司馬懿は息をひきとりました。 このとき司馬懿七十三歳でした。その後司馬懿の孫司馬炎(しばえん)という王朝を創建するにいたりました。


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