性は孫、名は権、字は仲謀。呉を大きく繁栄させた名君。
兄孫策(そんさく)から国を継いだ孫権は、このときまだ十九歳でした。
しかし孫権はうまく人心を掌握し、政権を安定させます。天下統一を狙う曹操(そうそう)
は荊州(けいしゅう 地方名)を降伏させ、次は呉に狙いを定めます。このとき国は開戦か降伏かで意見が真っ二つに分かれます。
重臣たちは降伏論を主張し意見は降伏に傾きますが、孫権は兄の義兄弟で水軍提督の周瑜(しゅうゆ)が
開戦を主張したことで開戦を決意します。まあ周瑜は劉備(りゅうび)
が呉に派遣した諸葛亮(しょかつりょう)にうまくのせられたんですが。
孫権は開戦を決意したとき武将たちの結束を固めるために、持っていた宝刀で机を一刀両断し「今後開戦か降伏かで議論はせん。もし
降伏などというものがおればこの机と同じものとなると思え」といって、決意の強さを示しました。
曹操軍は百万の大軍でしたが、周瑜らの活躍で、曹操軍を壊滅させます。歴史にのこる
赤壁(せきへき)の戦いです。曹操軍の本軍が撤退したあとの荊州をめぐる争いでは、
周瑜がうまく諸葛亮に翻弄され、荊州を劉備
にとられてしまいます。孫権自身はもう一つの要所である合肥(がっぴ)の城を攻めますが、敗退します。
その間に劉備は荊州の南部も制圧します。孫権は何度も荊州を返すように劉備に
要求しますが、まったく返す気配がありません。そこで孫権は周瑜の作戦で、
劉備と自分の妹(三国無双では孫尚香(そんしょうこう)として登場)を結婚させ、結婚式を
呉であげるようにもっていき、劉備が呉
にきたところで隙をみて殺そうとします。しかし呉にきた劉備をみて
母親が気に入ってしまい、殺すのに反対し二人は本当に結婚してしまいます。困った孫権と周瑜は
いろいろと策をこうじますが、結局劉備に逃げられます。そこで周瑜は
劉備のために蜀をとるふりをし、荊州を通過するときに
攻め落とす作戦を考えます。しかしこの作戦は諸葛亮に完全に読まれていて、策が失敗した
周瑜は病が再発して死にます。孫権はしかたなく荊州はとりあえず劉備に
かしておいて、同盟を継続しておきました。
その後劉備が蜀を平定します。 劉備は蜀をとったら荊州を返すという約束をしていたのに、 いっこうになにもいってきません。そこで使者に諸葛亮の兄諸葛瑾(しょかつきん)を送ると、 劉備は荊州の返却を承知しますが、荊州を守っている関羽(かんう)が 承知しません。諸葛瑾がしかたなくもう一度劉備のところへ行くと劉備は 「それなら漢中(かんちゅう 地方名)をとるまで待ってくれんか。漢中をとれば関羽に漢中を治めさせ 荊州をお返しすることができる」といいました。諸葛瑾はしかたなく帰ってきました。孫権はこれは諸葛亮 の計略だと思い、劉備が承知したということで荊州に役人を赴任させます。しかし全員 関羽に追い払われて帰ってきました。そこで今度は関羽を 酒宴に招き、そこで荊州を返すようにいい、承知しなかったときは殺そうとします。しかし関羽も バカではないので、それぐらい読んでいてうまく逃げられます。その後劉備が漢中を平定し 漢中王を名乗ります。これにたいし曹操から同盟を組もうという使者がきます。 孫権は迷い、とりあえず関羽に使者をだします。関羽が協力してくれれば 曹操と戦をしても負けることはないと思ったからです。しかし関羽 は断ります。そこで関羽が魏を攻めている間に 荊州を奪います。そして荊州をとりかえそうとして攻めてきた関羽を捕らえ、首をはねます。 その後曹操が死に、曹丕(そうひ)が後を継ぎ、その 曹丕は帝を脅し帝位につきます。それにたいし劉備も帝位につきます。 そして劉備は関羽の仇を討つため七十五万の大軍を率いて攻めてきました。 劉備軍の前に呉は滅亡の危機にさらされます。孫権は若い陸遜(りくそん) に最後の希望をかけ全軍の指揮を任せます。その陸遜は期待通り劉備軍を壊滅させます。 呉軍が蜀軍に勝つことを予想していた曹丕は、呉軍が勝利の勢いに乗って 蜀に攻め込むと思い、その隙に呉を攻めようと待機していました。 予想通り呉軍が勝ったため攻め込んできた曹丕ですが、陸遜は 蜀に攻め込まず引き返してきました。曹丕は驚きますがさらに兵力を増強して攻めて来ました。 陸遜の軍はなんとか間に合い魏軍を撃退します。その後劉備 は敗戦のショックで危篤に陥りそのまま息をひきとりました。
曹丕は若い劉禅(りゅうぜん)が帝位についた 蜀を滅ぼそうと、蜀に攻め込みます。 そして前は同盟を無視して攻め込んできたくせに、ずうずうしくも呉に協力要請をしてきました。 孫権は陸遜の提案でしばらく様子を見ることにしました。すると魏軍は諸葛亮 の計略で大敗を喫しました。孫権は参加しなくて良かったと思い呉に引き返します。 そこへ今度は蜀から同盟を組もうという使者が来ました。その使者の命を懸けた説得に心動かされた 孫権は蜀と同盟を組みます。するとそれに怒った魏 が攻めてきました。孫権は徐盛(じょせい)を総大将にして防衛にあたらせました。曹丕は 自分が三十万の大軍を率いているので、呉軍をなめていました。そこへ蜀の 趙雲(ちょううん)が長安(ちょうあん 地名)へむけ進軍しているという情報がもたらされます。 長安は重要な城なので曹丕は急いで引き返そうとします。そこへ呉軍が襲いかかり、 魏軍は赤壁の戦いにも匹敵するほどの損害をだして退却します。
その後諸葛亮が北伐(魏を討つこと)に向かいます。 孫権も蜀と同盟を組んでいるので魏と戦い、 石亭において魏軍をやぶり魏の都督曹休(そうきゅう)を負傷させ、曹休はそのまま死にました。 その後も蜀と魏は戦い続け、呉は その間に着々と力を蓄えました。そして他の二国にならって孫権は皇帝を名乗り、それを承認させるため蜀 に使者を送ります。蜀は孫権の皇帝即位を認め礼物を届けてきました。 その後も蜀と魏は戦い続けます。 諸葛亮は苦戦を強いられていました。そこで諸葛亮は 今こそ蜀呉同盟を発動してもらおうと考え、魏を攻めてくれるよう使者を送ってきました。 孫権も今は機は熟したということで、三路から魏を攻める約束をしました。 魏を攻めた呉軍ですが、敵の夜襲で大打撃をうけ一時後退します。 さらに陸遜の作戦が敵にばれてしまいます。もともと蜀の頼み ではじめた戦だったので、呉が損害をだしてまでも続ける戦ではないと考えた呉軍は撤退します。 その後諸葛亮が北伐を果たせないまま病に没します。そして魏 が蜀を滅ぼします。しかし孫権は最後まで呉を 守りとおしました。そして七十一歳という長寿で息を引き取りました。