戦争


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南郡争奪戦


赤壁(せきへき)の戦いに勝利した呉軍はその勢いで南郡(なんぐん 地名)攻略を開始しました。 呉軍の将周瑜(しゅうゆ)は、ともに赤壁の戦いを戦った 劉備(りゅうび)南郡の近くまで軍を進めていることが気になっていました。 劉備に先に南郡をとられたら自分たちのとる分がなくなってしまいます。そこで 周瑜劉備に釘をさしておくため、彼の陣へ向かいました。 周瑜劉備のところに着くと、よく統率された兵を見て 「劉備の兵力もバカにはできないな」とつぶやきます。劉備に会うと 劉備は「いやいや赤壁の戦いの戦いでの提督の作戦は見事でした。提督はここで 曹操軍をいっきに駆逐するお考えでございましょう。われわれもそのお手伝いをしようとここまで軍を進めてきました。もし提督のほうで南郡をとるご 意志が無ければ私が攻め取りますが」と言い出しました。周瑜は「いやいやとんでもない。荊州けいしゅう 地方名)をずっと手に入れたいと思っていた。今南郡はすでにの手のひらの中にあるようなものだ。 ご心配には及ばぬ」と答えます。すると劉備は「しかしことわざにも[掌中のもの必ずしも掌中の物ならず]ということがあります。 曹操(そうそう)南郡に残していった将は皆名将です。おそらく提督でもてこずると思いまして」と挑発してきます。 周瑜はこの挑発に乗ってしまい「もし南郡をとることがわれわれの手に余ったら、あなたの手でとるがよかろう」 と言ってしまいます。まあ言った本人はあまり気にしていませんでした。話し合いが終わって自陣に帰った周瑜は 早速南郡の城を攻めます。周瑜はまず南郡の城を孤立させるために近くの夷陵(いりょう)の城甘寧(かんねい)に攻めさせます。甘寧は簡単に夷陵の城を攻め落とします。 しかしそれは敵の作戦で、甘寧は逆に城を包囲され夷陵の城の城に閉じ込められてしまいました。 周瑜甘寧を助けるため一部の兵を残して救出に向かいます。そして城内の 甘寧の兵と自分の兵で魏軍を挟み撃ちにし蹴散らします。蹴散らされた魏軍は命からがら南郡の城に逃げ込みました。 呉軍は勝ち戦の勢いに乗ってついに南郡の城にせまりました。

南郡の城を包囲した周瑜が城兵をよく見ると、城兵は腰に兵糧袋(ひょうろうぶくろ 米の入った袋) をぶらさげていました。これは逃げるためのしたくです。敵がひるんだとみた周瑜はすぐに出陣します。 すると城兵が出て来て城外での戦になりました。周瑜は自ら先頭にたって戦いました。しばらく戦っていると敵は城を捨てて 逃げ出しました。周瑜はこの機に一気に城をとろうと南郡の城に突っ込みます。しかしこれは敵の罠でした。城内には落とし穴 があり先頭を走っていた周瑜は穴に落ちてしまいます。穴から這い上がった周瑜は 馬に乗って逃げようとしますが、弓矢にあたって倒れてしまいます。近くにいた武将が何とか助け出し呉軍は退却しました。 周瑜は助かりましたが、感情が高ぶったりすると高熱がでる病にかかってしまいました。曹操軍はそれから毎日 呉軍の陣の前にきて挑発していました。呉軍の武将たちはその悪口に耐えられず戦おうとしますが、周瑜が病のため それはできません。しかたなく将の一人が「しかたない。それでは一度国に帰って、提督の病が治ってから再度攻めよう」と言います。しかしそれはできるはずがありません。 周瑜劉備南郡の城とりがうまくいかないときは勝手にとっていいと 約束しています。呉軍の将たちは困り果ててしまいました。曹操軍の将はいくら挑発しても呉軍がうんともすんとも言わないので 周瑜が死んだのだと思い、総攻撃をしかけます。呉軍はやむなく応戦します。その戦の声を聞いた 周瑜は自らも出陣します。周瑜が生きていることに驚いた曹操軍でしたが、 周瑜が前の戦で矢にあたっていて、怒ると病が再発することはわかっていました。そこで曹操軍は皆で 周瑜を挑発します。周瑜は怒って血を吐き倒れてしまいました。 呉軍は急いで退却しましたが、大きな被害が出ました。陣に帰った周瑜は「今日倒れたのは病が再発したからではない。 曹操軍を欺くためだ。これで曹操軍は私が死んだと思うだろう。すぐに私が死んだという噂をたてろ。そうすれば敵は必ず夜襲してくる」と言いました。 そして予想通り曹操軍は夜襲をかけてきました。呉軍はこれを回りから袋叩きにし、曹操軍の大半を討ち取りました。曹操軍は城を守ること をあきらめ、今度こそ本当に逃げていきました。呉軍がついに城に入城しようとすると、なんと城の上に劉備の将 趙雲(ちょううん)がたっていました。そして「周提督がこの城をとるのに苦戦しているようなので、この城はわれわれが占領した。 お気の毒ではあるがおひきとり願いたい」といいました。周瑜はあまりのことにびっくりして怒りそうになりますが、部下に なだめられとりあえず陣に帰りました。陣に帰った周瑜はまず荊州の他の城をとってそれから南郡の城を奪い 返そうとします。しかし偵察の者が帰ってきて「すでに他の城も劉備軍に占領されています」と言いました。周瑜は怒って 劉備軍と戦おうとしますが、魯粛(ろしゅく)がとりあえず話しを聞いてくるといったので、それを待つことにしました。 劉備のところに説得に行った魯粛でしたが、 劉備のところでは前の荊州の国王の長男が養われていて、劉備荊州を 治める理由にけちをつけることができず帰ってきました。周瑜がそれを聞いてどうしようか迷っていると、 主君孫権(そんけん)から急いで国に引き返してくれという使者が来ました。周瑜は しかたなく国に帰ることにしました。こうして呉軍は少しの土地も手に入れられないまま国に帰りました。


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