戦争


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成都攻略戦


劉備(りゅうび)は自分がわざわざ蜀(しょく)まで来て 劉璋(りゅうしょう)を助けているのに、劉璋が援軍の申し出に対して老人兵数千しか送ってこなかったことに怒りをおぼえました。そこで 劉備は皆が勧める通りをとることにしました。そこで 劉備ほう統の策で、荊州(けいしゅう 地方名)に帰るふりをし、 途中にある敵の城ふ水関(ふすいかん)をとる策にでました。劉備を とってもらおうと考えて劉備と内通していた劉璋配下の張松(ちょうしょう)は、 劉備が本当帰ってしまうと勘違いし、劉備宛に手紙を書きます。 そこへ張松の兄がやってきました。二人は酒を酌み交わしました。張松は酔っ払って眠ってしまいました。兄張粛(ちょうしゅく)は 「この程度で酔いつぶれるとはなさけない」と言いながら帰ろうとしました。そのとき張松劉備に宛てた手紙が床に 落ちているのに気づきました。それを読んだ張粛は驚きます。そして弟の命より忠誠を優先し劉璋に見せてしまいます。 その手紙を見た劉璋は怒ってすぐに張松を打ち首にし、劉備を殺す策を諸将に考えさせました。 すると楊懐(ようかい)が「それなら私にお任せください。劉備荊州に帰るなどと言っていますが、もちろん本心では ありません。そこでこれを利用し、劉備ふ水関に近づいたらこれまでのお礼ということで酒宴を開き、その場で 劉備を刺し殺すのです」と言いました。劉璋は「それは名案じゃ。すぐにやれ」と言って実行させました。 劉備はそうとは知らずふ水関に向かって進軍していました。城の近くまで来ると楊懐の家来が待っていて、 労をねぎらいたいから酒宴を準備したのでお越し願いたいと言いました。ほう統が「これはこれはご丁寧に」と言って 了承したため、楊懐の家来はひとまず城(ふ水関)に帰りました。ほう統はこれは策であると瞬時に見抜き、 準備をします。そのうち楊懐高沛(こうはい)がやってきました。二人は劉備の家来に剣をあずけて 酒宴を行う場所に入りました。両将軍ともふところには短剣をしのばせていました。酒宴をしていると劉備 が「両将軍に内密に相談したいことがあるのじゃが、両軍の兵がこうも近くにいては相談できん。すこし人払いをさせていただく」と言いました。 楊懐らは劉備が自分から人払いをしてくれたので内心ほくそ笑み、人がいなくなってから 劉備を殺そうと身構えました。すると人がいなくなったとたん、近くに隠れていた劉備 の家来が現れて二人を捕らえました。そして二人の懐を探ると短剣が出てきました。これで二人が劉備を暗殺しようとしていた ことがばれ二人はもんどうむようで打ち首になりました。楊懐らの家来は魏延(ぎえん)黄忠(こうちゅう)が捕まえていました。ほう統は彼らに 「楊懐高沛二将軍は打ち首になった。さてそなたたちはどうする。われらが味方となり手柄を立てて恩賞をいただくか、両将軍と同罪で打ち首になるか」 などと答えのわかりきった質問をしました。家来らは当然「我々は二将軍が劉備様を暗殺しようとしていたことは知りませんでした。 お許しくださるなら、劉備様のために働きます」と言いました。ほう統は 彼らに酒を振舞い味方に加えました。その日の夜、味方にした家来たちに城に向かって「両将軍のお帰りじゃ。開門ー開門ー」と叫ばせ、城門を開けさせた 劉備軍は一気に城に突入し、ふ水関を占領しました。

ふ水関をとられて慌てる劉璋でしたが臣下の一人が「ご心配なさいますな。すぐに兵を出し一の 要害らく城を押さえてしまえばいくら劉備軍といえども超えることはなりますまい」と言いました。劉璋劉かい冷苞(れいほう)張任(ちょうじん)とう賢らをらく城に向かわせました。四人は二手に分かれ、二人が城を守り、残りの二人が外に出て陣を張り 劉備軍を迎え撃つことにしました。劉備陣営では敵が陣をつくっていることを聞き、誰かにこの陣を攻めさせようとします。 すると黄忠が名乗りでました。劉備がそれに了承すると 魏延が「わが君。お待ちくだされ。敵は名将です。老将軍(黄忠はかなりの高齢) では荷が重いと思われます」などと口を挟みました。黄忠は当然これに怒って、二人はケンカをはじめようとします。 そこでほう統の提案で魏延とう賢の陣、 黄忠冷苞の陣を攻めさせ先に占領したほうを第一の軍功にすることにしました。そして二人は出陣していきました。 ですが二人(特に魏延)が手柄争いを起こすことは目に見えていました。そこで劉備も 兵を率いて後から続きました。その日の夜、やはり魏延は手柄争いに走ります。魏延は 敵陣を二つともとろうとし、まず冷苞の陣に攻めかかりました。冷苞軍も待ち構えていて両軍は衝突しました。すると辺りから冷苞軍の伏兵が現れました。 裏をかかれた魏延はひとまず退却します。ですが退路にはとう賢軍が待ち構えていました。 魏延は危機に陥ります。魏延があきらめかけたそのときっ(笑) 一本の矢が飛んできてとう賢の喉を射抜きました。そう黄忠です。とう賢をたおした 黄忠冷苞にも襲い掛かりました。冷苞は一騎打ちで黄忠に圧倒され 退却します。ですが陣はすでに後からきた劉備が占領していました。冷苞らく城まで退却することにしました。 完全に手柄を黄忠にとられた魏延は落胆していました。 ですが戦でちりじりになった兵を待っていると、物見が「冷苞らく城に引き上げるために向こうからやってきます」言いました。 魏延は自分にはまだ運があると喜び、兵を伏せて待ち伏せしました。すると確かに冷苞がやってきました。 魏延は合図を出して襲い掛かり冷苞を生け捕りにしました。敵将を捕らえた魏延は 大満足して奪い取った陣に引き返しました。黄忠魏延が軍法を 納得できないと劉備に言いました。ほう統も「このまま放置しておいては 軍規の乱れとなりまする」と言ったので劉備魏延を呼びました。 しかし死刑にはせず魏延黄忠に謝罪させました。 そして軍規をやぶった罪は冷苞を捕らえた手柄で無しとすることにしました。そして劉備冷苞の縄を解かせ 「冷苞よ。わしはいたずらに人を殺すのを好むでない。このたびの戦の捕虜も帰りたい者は帰らせてやった。どうじゃそなたもらく城に帰って 君の友を説き城を余に渡されぬか。それならば必ず重く用い以前にも勝る繁栄を約束する」と言いました。冷苞はそれに応じたふりをして城に帰りました。 そして番兵を斬って逃げてきたなどと嘘をつき「初戦は敗れたが劉備軍はたいした兵力ではない。全軍であたれば滅ぼせる」と言いました。 そして劉かいも賛成し援軍を呼びました。

冷苞らがつくった陣は魏延黄忠 が守っていました。その地は低地になっていて近くの大河の堤防を決壊させれば湖の底になるところでした。ですが劉備 たちは当然それを知りません。そこで冷苞は堤防を決壊させるため工具などを集めはじめました。その頃劉備の ところに永年(えいねん)という人物が訪ねてきました。彼は劉備魏延ら が守っている陣は低地にあり、堤防を決壊されれば湖の底になるということを教えました。劉備は 「よくぞ忠告してくれました」と言って、すぐに二つの陣に急使を送りました。そしてある日風雨が吹き荒れました。冷苞は今日なら気づかれずに 堤防に近づけると思い出陣しました。そして堤防を決壊し始めました。ですがすでに気づかれていて、すぐに魏延が現れました。 冷苞は逃げようとしますがまた捕まってしまいます。そして劉備は「余はそなたを武人として礼を与え仁義をもって 許したはずじゃ。なのにそなたは反対のものをもって余に報いた。今はそなたの首を斬ることに何の哀れみも感じぬ」と言って首を刎ねさせました。 そして劉備はさらに進軍することにします。劉備張松と共に協力している (張松はもういませんが)法正(ほうせい)は地図を出しらく城に向かう隠し道(と言っても普通の道ですが)のようなものを進むように進言します。 そしてらく城の北側の隠し道をほう統、 南の隠し道を劉備が進軍することになりました。翌日両軍は進軍を開始しました。劉璋軍のほうでは きっての名将張任が「第一戦は拙者に任せてくれ」と言って出陣しました。張任は北側の道に向かいました。 この道は非常に険しい山道でした。張任は狙いを劉備(北側を進んでいると思った)にしぼり狙い打てるように 兵を崖の上に伏せました。そして先鋒をやりすごし中軍を待ちました。そして中軍に見事な白馬に乗った将を見つけそれを劉備 だと考え兵たちに狙わせ、合図を待たせました。狙われているとうの本人ほう統は家来に「こんな険しい道は にしかあるまい。なんという地名じゃ」と家来に聞きました。すると家来は「落鳳坡(らくほうは)です」と言いました。 このという字はほう統が賢人として呼ばれるときの呼ばれ方鳳雛(ほうすう)の字と一緒でした。それが落ちるとは なんと演技が悪い。なんともいえぬ嫌な予感に襲われたほう統は進軍を一時中断して立ち止まりました。 張任はチャンスだと思い弓矢発射の合図を出しました。狙い打たれたほう統は全身に矢を受け三十六年の 短い生涯を終えました。敵将を倒したのを確認した張任は全軍で攻め込みます。ほう統を失った軍は混乱し 次々と討たれました。それを聞いた先鋒の魏延は救援に向かおうとします。しかし岩を落とされ道が塞がれたため 戻れず、らく城に向かい南道を通っている劉備が来るまで戦うことにしました。 魏延が戦い続けているとようやく劉備の先鋒 黄忠が来ました。そして双方大激戦となりました。そして劉備はいったん 引き上げることにしました。城に帰った劉備ほう統がいないことに気づき どうしたのかと聞きます。すると家来の一人が死んだということを伝えます。劉備はじめ将たちは悲しみます。 そして将たちは「こうなれば弔い合戦です。一気に攻め滅ぼしましょう」と言います。ですが劉備は 「いや、ここは我慢するのじゃ」と言って荊州に残っている諸葛亮(しょかつりょう)に援軍を求める使者を送りました。

諸葛亮関羽(かんう)荊州に残し、 自らは趙雲(ちょううん)を先鋒として出陣し、違う経路から張飛(ちょうひ) を出陣させました。その頃劉備はじっと援軍を待っていました。百日以上経過したある日黄忠 が「敵は我々が城を出ないと決め付けて堕落しています。今不意をついて攻めれば大勝間違いありませぬ。 そうすれば援軍が来たとき成都(せいと の都)に攻め入るはたやすくなると思います」と言いました。 劉備もこの策に賛成し、劉備軍は城外の敵軍に夜襲をかけました。この夜襲は成功し勢いに乗った劉備軍らく城にまで 攻めかかり、四日間攻め続けました。しかしらく城はびくともしませんでした。これは張任の計略でした。張任はわざと軍が堕落しているように見せかけて劉備軍に 攻撃させ、疲れ果てるのを待っていました。劉備軍が四日間も攻撃し機が熟したと見た張任は一隊を劉備軍の背後に回らせ、魏延黄忠劉備の援軍に向かえないようにそちらにも軍を送り 劉備を完全に孤立させることにしました。そして準備は整い張任は総攻撃をしかけました。 劉備は城内の兵がめずらしく攻撃を仕掛けてきたので戦おうとしますが、背後からも敵兵が現れました。 さらに物見が魏延黄忠も戦闘をはじめたので援軍にはこれず、 完全に軍が分断されたと劉備に伝えました。包囲された劉備軍はあっという間に討たれていきました。 劉備は逃げました。しかし張任は何処までも追ってきます。劉備が あきらめかけたそのときっ(またです(笑))目の前に一隊が現れました。それは敵ではなく張飛の軍でした。 急に張飛の軍が現れて驚いた張任は退却していきました。劉備も こんなに早く援軍が来るとは思っておらず驚きましたが、今はそれどころではなく劉備張飛 をつれ、味方が苦戦しているらく城に向かいました。張飛の登場で形勢は逆転し張任たちはひとまずらく城に引き上げました。 劉備も味方を休ませるためひとまず引き上げました。分断されていた魏延黄忠も無事で、それどころか二人とも敵将を捕らえていました。劉備は 二人を口説き降らせました。二人も将を失い敵には張飛が加わりその剛勇ぶりを見て張任らの兵はおびえていました。 そこで張任張飛を捕らえようとします張飛は猪武者だったので わざと負けて山間に逃げ込み、そこに伏兵を伏せておき包囲する作戦でした。翌日張任らは出陣し作戦を決行します。そして張飛は 作戦通り罠にはまりました。ですが今度はそこに趙雲の軍が現れました。趙雲 の軍に伏兵は追い払われ張飛は助かりました。そして諸葛亮劉備のところに到着しました。諸葛亮は降らせた蜀将から「張任がいる間はらく城は 落とせない」ということを聞きました。そこで諸葛亮張任を捕らえることにしました。辺りの地形を見て回ると 金雁橋(きんがんきょう)と言う橋があり、橋を渡ると背の高い草が多い茂った場所があり、さらにその先は険しい崖に囲まれた道に続いていました。 そこで諸葛亮は作戦を授けてそれぞれに兵を伏せさせました。翌日まず諸葛亮少数の兵をらく城に 攻めさせました。張任は敵が少数しかいないことを確認すると打って出ました。すると諸葛亮が現れ 「曹操軍百万でさせわが計略のもとに壊滅した。なぜおぬしごときがわしにはむかう」と言いました。張任は誰かわからなかったので「お前は誰だ」 と聞きました。諸葛亮が「諸葛亮孔明」と答えると張任は「ここで敵の軍師を見つけたのは天の助け」と言って攻めてきました。 諸葛亮は作戦通り橋を渡って逃げました。張任も橋を渡って追いかけてきます。すると劉備軍の伏兵が現れました。 張任が退却しようとすると橋は壊されていました。しかたなく張任は草むらの中に逃げ込みました。しかしそこにも伏兵がいました。張任はなんとか突破し 崖に囲まれた道に逃げ込みました。しかしここにも兵がいて張任は捕まってしまいました。劉備張任を 降らせようと必死に口説きましたが張任は断固として断りました。諸葛亮も「あまりしつこく口説くのはよくありませぬ」と言ったので 劉備は「惜しい人物じゃが」と言って惜しみながら首を刎ねさせました。張任が死んだことでらく城の士気は落ちました。 そして劉備軍に降伏した将たちが「城兵よ、よく聞け。もうすでに我々も降伏した。おぬしらだけで何ができる」というと観念して降伏しました。こうして らく城劉備軍の物になりました。

らく城まで落とされた劉璋はかなりあせりました。そこでなんと劉璋劉備 を呼ぶ直接の原因になった敵国の張魯(ちょうろ)に援軍を求める使者を送りました。詳しくはここ。 その間にも劉備軍最後の砦綿竹関(めんちくかん)に迫りました。綿竹関では李厳(りげん)が三千の兵で 城外に陣を張っていました。まずは先鋒の黄忠が攻めかかりました。黄忠李厳は一騎打ちをします。ですが互角でした。そこで諸葛亮はひとまず黄忠を 引き上げさせました。翌日黄忠はまた李厳に戦いを挑みます。ですが今度は少し一騎打ちをすると 黄忠は逃げていきました。李厳はそれを追います。そしていつしか山間に入り込みました。すると 諸葛亮が現れて「李厳よ、すぐに降伏せよ。さもなくば矢を放つぞ」と言い、辺りからたくさんの弓矢兵が現れました。 これには手も足もでず李厳は降伏しました。そして劉備に会いその志の大きさを知ると降伏し綿竹関の仲間を 口説いて降伏させました。こうして綿竹関劉備軍の物になりました。

しかし荊州への帰り道の途中にある城に今度は(今までも張魯の軍が攻めてきていた)援軍の要請を受けた張魯のところにいた 馬超(ばちょう)が攻めてきました。曹操(そうそう)に戦で敗れ領地を失った 馬超はこの機会に領地を得るため、自ら張魯に願い出て援軍の将となりました。 帰り道を断たれては荊州に帰れません。そこで綿竹関の守りは諸葛亮が引き受け、劉備張飛をつれて馬超と戦うため城に向かいました。 城につき劉備軍馬超軍は激突します。そして張飛馬超の一騎打ちになります。 二人とも強く昼頃からはじまったのに夜になっても決着がつきませんでした。そして暗くなったのでその日は決着がつかないまま終わりました。 城に戻ると諸葛亮が来ていました。諸葛亮は「このまま二人が一騎打ちを続ければいずれ どちらかが死にます。ですが二人とも殺すにはあまりにも惜しい豪傑です。そこで馬超を味方につける策がございます」 といいました。劉備は反対するはずもなくすぐに諸葛亮の策を実行しました。 まず劉備は賄賂好きで知られる張魯の腹心楊松(ようしょう)に賄賂を贈ってひとまず取り込みました。 そして張魯に「馬超を引き上げさせてくれれば、あなたが漢寧王になれるよう朝廷に働きかける」という手紙を送りました。 張魯劉備にそんなことをする力があるのか疑問に思いますが、楊松が「劉備は 官職は高からずとも立派な漢の皇叔(こうしゅく)です」と言ったため手紙を信じて馬超に引き上げるように手紙を送りました。 ですが馬超は引き上げようとしません。そこで劉備はさらにたくさんの賄賂 を楊松に送りました。そして楊松は「馬超が引き上げないのは何か野心がある証拠です。おそらく をとって自らの土地として父の仇を討つつもりです」などと言いました。そして「そこで馬超に に一ヶ月以内に劉備軍を追い払ってを取れなかったら首を差し出せという条件を出すのです」と言いました。張魯が 「それでは馬超が怒って攻めてはこないか」と聞きますが楊松は「それに備えて国の要所に兵を配置しておくのです」 と言いました。張魯は腹心の楊松が言ったことなのですっかり信じ込んでしまい、その通りにしてしまいました。手紙を受け取った馬超は しかたなく引き上げようとしますが、漢中を探らせたところ要所要所に兵が配置されていることを知りました。馬超は 帰ることもできなくなり途方にくれました。そこで諸葛亮がこの機に口説きに行こうとします。しかし 諸葛亮にもしものことがあってはと劉備が止めます。するとそこに 李恢(りかい)という人物が訪ねてきました。かれは死んだ馬超の父馬騰(ばとう)の友人でした。 李恢は自分には馬超を口説く自身があるので任せてくださいと言いました。そして李恢は言葉通り 馬超を降らせることに成功しました。劉備馬超のために酒宴を開き手厚くもてなしました。馬超はそんな 劉備の人柄に惚れ「真の明主を得た」と喜びました。そして馬超は 最初の任務として劉璋を降らせることにしました。馬超劉璋に「劉璋殿、援軍は来ません。 私は劉備軍に降伏しました。あなたも無益な戦いはやめて降伏なされ」と言いました。たいした能力の無い劉璋はどうすることもできずついに 劉備に降伏しました。こうして劉備はようやく自分の国を手に入れました。


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