戦争


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赤壁の戦い


荊州(けいしゅう)を降伏させた曹操(そうそう)は天下統一まで後一歩のところまでしました。 残る敵は夏口(かこう 地名)劉備(りゅうび)孫権(そんけん)でした。曹操孫権に「ともに劉備を討とう」という書状を送り 出方をみました。孫権はとりあえず劉備の ところに魯粛(ろしゅく)を使者として送りました。劉備 の軍師諸葛亮(しょかつりょう)は使者が来るのを予期していて、魯粛 とともにに向かいました。このとき劉備の力は弱っていて を戦わせる以外に劉備を 救う方法はありませんでした。このころでは曹操に 降伏するか戦うかでもめていました。どうしようか決められない孫権は兄 の遺言の「外からの混乱は周瑜(しゅうゆ)に問え」というのを思い出しました。 そこで水軍の訓練のため都にいなかった周瑜に、都に来るよう使いをだしました。 このとき周瑜のところには魯粛諸葛亮が来て話をしていました。周瑜は最初降伏などと言って 皆の士気を試していました。二人との話し合いでも周瑜は最初孫権に 降伏を勧めるつもりだといいました。すると諸葛亮が「曹操大喬(たいきょう)小喬(しょうきょう)をほしがっている」といいました。大喬周瑜の 義兄で早くに死んでしまった孫策(そんさく)の妃で小喬周瑜 の妻でした。周瑜曹操の、欲しいものは何でも手に入ると いう態度に怒り開戦を決意します。都では降伏派がやや優勢でした。しかし周瑜は絶対勝てると言って 孫権を説得しました。そして開戦を決意した孫権は 持っていた宝刀で机を一刀両断し「二度とこの問題で評議はせん。もし降伏などと言う者がいたらこの机と同じものになる」と言って、 刀を周瑜に渡し全軍の指揮を任せました。

しかし周瑜諸葛亮の智謀を目の当たりにし、 もし敵になったら自分はかなわないと思い、殺害しようと考えます。しかし理由も無いのに殺せば世間の非難を浴びます。そこで 周瑜諸葛亮にわずか千騎で曹操軍の食料を焼き払ってくれるよう頼み、 曹操の手で諸葛亮を殺させようとします。 その頼みを承知した諸葛亮魯粛に「勝算はあるのですか?」と聞かれて 「失礼ながら私は兵法においてはあなたたちより優れていると思っています。あなたも周瑜殿も優れた将であることは 認めますが一つのことしかできません。あなたは陸戦だけ。周瑜殿は水上戦だけ。陸戦にかけては 周瑜殿が無智に等しいのは先ほどの言葉でお分かりでしょう」と答えました。魯粛が 「言葉が過ぎませんか」というと諸葛亮は「いやいや。わずか千騎で曹操軍の食料を焼き払えなど、陸戦を知っているものには いえません。もし私が討ち死にでもしようものなら周提督愚将(ぐしょう ばかな将)だと天下の笑いものになるでしょう。もちろん死ぬ気などありません がな。はははは」といって去っていきました。。魯粛周瑜に このことを伝えると周瑜は怒って「なにぃ!。すると諸葛亮は このわしを愚将だといったのか。無礼な、これでもの全軍をあずかる周瑜 だぞ。それならこの周瑜愚将かどうか見せてやる。このわしが五千の兵で曹操軍の食料を焼き払い 諸葛亮の鼻を明かしてやる。諸葛亮の出陣は取り消せ」といいました。 魯粛からそれを聞いた諸葛亮は「なに周提督じきじきに五千の兵をもって 曹操軍の食料を焼き払うと。はははは。のう魯粛殿。周提督 の宝。みすみす討ち死にさせてはなりませぬ。いまとわが君劉備が 一体となれば曹操にうち勝つこともできるでしょう。しかし仲間同士で争い疑い合っていれば 曹操に乗じられるだけです。その理をよく説いて思いとどまらせてください」といいました。 魯粛は「私もそう思っていました」と言って周瑜のところに行き そのことを話しました。周瑜は出陣は思いとどまりましたが、自分の心理を完全に見通している 諸葛亮の恐ろしさに、やはり必ず殺す必要があるとあらためて思いました。

そのころ夏口にいた劉備は、呉軍の船団が川をさかのぼりはじめたので に戦いを挑むことはわかりました。しかし 諸葛亮からなんの連絡もないので心配していました。そこで陣中見舞いということで使者を送り 様子を探らせました。使者に会った周瑜諸葛亮ともども 劉備を殺そうと考えました。そこで使者に「打ち合わせをしたいので一度劉備 殿にここにおこし願いたい」といいました。帰ってきた使者からそのことを聞いた劉備は 危険を覚悟して呉軍の陣に行くことにしました。護衛に関羽を連れて行きました。 呉陣に来た劉備が数十人しか家来を連れていないことを知った周瑜は すぐに家来を配置して暗殺の準備をします。しかし護衛の関羽がずっと劉備 のそばに立っていて、周瑜は手出しできませんでした。諸葛亮は 帰る途中の劉備に会い「自分のことは心配いりません。十一月の東南の風が吹く日に帰ります。 東南の風が吹いたら趙雲(ちょううん)に早舟を出させ長江(この戦いの舞台)の南岸で待つように指示くだされ」 と言って別れました。その頃曹操は水上の戦をしたことのない自軍の兵の訓練のため大規模な水塞 を造りました。さらに周瑜を見方につけようと周瑜の 幼少からの友の蒋幹(しょうかん)を送り込んできました。周瑜はこの蒋幹曹操の客将で自分を口説きに来たとわかっていました。そこで、わざと蒋幹の気づくところに 曹操軍の水軍の将蔡瑁(さいぼう)と内通しているという偽手紙を置いておきました。それを見た蒋幹は急いで曹操 のところに戻りその手紙を見せました。曹操はその手紙を見て怒り、蔡瑁を処刑しました。 周瑜はこの蔡瑁が思ったより水軍の兵法に詳しかったので、蒋幹を逆に利用して殺したのです。 周瑜諸葛亮が自分のこの策をどう批評するかで 諸葛亮の考え方を知り、もし敵対したときのための参考にするため 魯粛に話を聞いてくるように言いました。すると諸葛亮は その策を全部知っていて、しかも周瑜が自分の胸のうちを探るために魯粛 を送ってくることも予期していました。周瑜はそれを聞いて諸葛亮を 殺害するのにもはや猶予は無いと考えます。そこで諸葛亮に十日で十万本の矢をつくるようにいいました。 そして失敗したら軍法に照らして打ち首にするつもりでした。すると諸葛亮は十日などと長い期間を おかず三日でつくるといいました。周瑜は信じられませんでしたが諸葛亮が ついに墓穴を掘ったと喜びました。諸葛亮は期限の三日目の夜、二十余艘の船にわら人形を乗せて 曹操軍の水塞に向かいました。この日は濃い霧がかかっていました。そして夜襲と勘違いした曹操軍はこの偽装船団に矢を雨のごとく浴びせました。 そして偽装船団には数え切れないほどの矢が突き刺さっていました。諸葛亮呉陣に引き返して約束通り 十万本の矢を周瑜に渡しました。周瑜は 「この知恵、とても拙者のおよぶところではない」と言ってとりあえず殺害をあきらめました。

曹操は上に書いた船団が矢狩りをするために来たのだと知りました。 すると臣下の一人が「丞相(曹操)。今呉軍には諸葛亮 あり周瑜ありでうかつに手は出せません。そこで呉軍を内部からほろぼすために埋伏の毒、 すなわち敵が信用する者を送り込んではいかがでしょう」と言いました。曹操が「敵が信用する者が わが陣営にいるのか」と聞くと臣は「ございます。蔡瑁の甥の蔡和(さいか)蔡仲(さいちゅう)です。 蔡瑁が丞相の手で処刑されたことは呉軍も知っています。だからその甥が呉軍に降っても誰も不思議には思いますまい」と 言いました。曹操がさらに「しかし蔡和蔡仲も本当に私をうらんでいる。もし本当に呉軍に降ったらどうする」 と聞くと臣は「皆がそう考えるところがこの策の狙いどころです。二人の妻子はこちらにあります。なんで二人が丞相にはむかえましょう」 と答えました。曹操は感心してこの策を実行しました。ですがこの策は曹操軍大敗の原因となるだけでした。 二人は兵五百人ほどをつれて呉軍に投降を申し出ました。周瑜は降伏してきた二人が妻子をつれていなかったので すぐに偽りと見抜きました。そこでこの二人を利用しようと考え、わざと投降を信じるふりをし見方に加えました。 ある日の軍議で周瑜に対して黄蓋(こうがい) が少し反論しました。そして口論になり怒った周瑜黄蓋を 杖百打の刑にしました。しかしこれは蔡和蔡仲呉陣はまとまっていないというイメージをうえつけるための演技でした。ですが 「敵を欺くならまず味方から」ということで演技していることは周瑜黄蓋しか 知らないことでした。刑も本当に実行され黄蓋の体は傷だらけになりました。「苦肉の計」です。 そして黄蓋曹操に偽りの降伏の使者を送りました。 曹操は最初疑っていましたが、蔡和から黄蓋が 杖百打の刑を受けたという手紙を受け取ると、使者の言っていることが真実だと信じて降伏を了承しました。

その後曹操はまた蒋幹呉陣に送りました。そこで 周瑜は今度も蒋幹を利用します。まず周瑜蒋幹に会うとすぐに 彼に罪を着せて山中の小屋に閉じ込めました。夜になって蒋幹が警備の兵を見ると眠っていました。脱出した蒋幹でしたが道がわかりません。 すると一軒の家を見つけました。そこには有名なほう統が住んでいました。 このほう統呉軍の協力者でした。蒋幹ほう統に ぜひ曹操に仕えるようにいいました。ほう統曹操軍に 「連環の計」を仕掛けるため、それに了承したふりをして曹操のところに行きました。 曹操は有能な士を欲しがっていました。そしてほう統が くるとめちゃくちゃ喜びました。曹操ほう統に 自軍の弱点を見てもらおうと案内しました。一通り陣中を見終えた後、酒を酌み交わしているとほう統 が気分が悪そうにしていました。曹操がどうしたのかと聞くとほう統は「長い船旅の疲れが出たようです」といいます。 そこで曹操が医者を呼ぼうとするとほう統は 「ご陣中には医者がたくさんおられることでしょう。お願いします」といいました。曹操が 「なぜ医者が多いとおわかりになる」と聞くとほう統は「丞相の兵は大半が北国の生まれ。この土地の風土や 船上での生活にはなれておりませぬ。病人も多いだろうと推察いたしました」と答えました。曹操は 「さすがほう統先生、よく見破られた」と言ってどうすればいいのか聞きました。すると ほう統は「船と船を鎖でつなぎ交互に渡り橋をかけ自由に往来させるのです。こうすれば平地にいるかのごとく 兵は行き来でき、また風雨の日でも船の揺れは少なくなります」と答えました。曹操はなるほど と感心してすぐに鎖を作りました。「連環の計」が成功したほう統は、「呉軍の将を口説いて 曹操様の味方にするために呉陣に帰りたい」などと口実を作って呉陣に帰りました。

しかし曹操軍を倒すにはまだ問題がありました。曹操軍の陣は北にあり呉軍の陣は南にありました。しかし今の時期 西北の風は吹いても、東南の風、すなわち呉軍から曹操軍に向けての風は吹くことはありませんでした。これではせっかく「連環の計」で つないだ曹操軍の艦隊に火をつけても、火は呉陣を焼き払ってしまいます。周瑜は 東南の風が吹く季節までどうやって百万の曹操軍を防ごうかずっと悩んでいました。そのことを考えると気が重かった 周瑜は仮病をつかって寝込んでいました。しかし諸葛亮には 仮病は通用しません。諸葛亮周瑜に「昔、異人にあって 天候を変える方法がのっている書を授かりました。提督が東南の風をお望みならその秘法でもって東南の風を吹かせましょう」といいました。 周瑜も「やらないよりはましだ」といって頼みました。 もちろん諸葛亮は妖術で風向きを変えようというのではありません。毎年十一月になると数日だけ東南の風が吹くことを 諸葛亮は子供のころからの気象観測で知っていたのです。 そして数日後諸葛亮の予想通り東南の風が吹き始めました。周瑜は天候を 変える諸葛亮を恐ろしく思い、もはや諸葛亮を殺すのに理由がどうとか言っている場合ではなくなりました。 周瑜諸葛亮を殺すために兵を差し向けますが、 諸葛亮はすでに迎えの趙雲の船に乗って 夏口に帰っていました。はめられた周瑜は「曹操と手を組んで さきに劉備を滅ぼそう」などと言い出しますが魯粛の説得でおさまり ました。周瑜蔡和を軍神への血祭りの儀式に使い出陣しました。

まず黄蓋曹操に 「前線に武器や食料を運ぶことになったので、それらの物資を持ったまま曹操軍に降伏したい」という手紙を送りました。 そして黄蓋の船団は何の攻撃も受けず曹操軍のいる湾内まで侵入しました。しかし船足が軽くとても武器や食料を 積んでいるようには見えなかったので、怪しいと感ずいた曹操は攻撃を命じます。ですが時すでに遅し。 黄蓋の船団の先頭の船には、わらや硫黄が積んでありました。そこに黄蓋 の兵が火矢を放ちました。火は東南の風にあおられてあっという間に燃え広がりました。呉軍の火計大成功です。この火計で 曹操はあっという間に三十万の兵を失いました。敗走する曹操軍に今度は劉備軍が襲い掛かります。 この劉備軍の攻撃や長い敗走の旅のため、曹操のまわりを固める兵は三百騎にも満たない人数になっていました。 そして疲労の極に達したころ劉備軍の最後の待ち伏せ隊が現れました。その将は関羽でした。 曹操軍の兵は関羽を見て絶望しもはや立ち上がることもできませんでした。 そこで曹操は昔関羽にかけた恩にすがって見逃してくれるよう頼みました。 情に厚い関羽は結局曹操を斬ることができませんでした。 こうして曹操は何とか荊州の城にたどり着きました。この戦で曹操 の力は激減し諸葛亮の天下三分の計がはじまります。この大戦は諸葛亮周瑜 の活躍で非常に有名です。しかし三国志の正史では曹操軍に疫病が発生し、そこに火をつけられて敗走したという記述になっています。


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