戦争


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初陣(最初の戦い)


曹操(そうそう)は南方攻略のための軍議を毎日のようにひらいていました。 そして諸葛亮(しょかつりょう)が農民から兵をつのり軍事鍛錬をしているのを知ると、 劉備(りゅうび)があとあと厄介な存在になるのをおそれて、南方制覇の第一歩として新野(しんや 地名)にいる 劉備をほろぼすことにしました。夏候惇(かこうとん)総大将(軍の最高司令官)とした曹操軍は十万の大軍を率いて新野へと攻め込んできました。そのころ新野では 劉備諸葛亮があまりにも仲良くしているので 劉備義弟関羽(かんう)張飛(ちょうひ)諸葛亮をきらい、 劉備に「殿はひとにほれこみすぎるのではありませんか」といいました。すると 劉備は「私と諸葛亮は水と魚のようなものだ。」といいました。 関羽張飛はそれ以上はいいませんでしたが、 その後も諸葛亮をきらっていました。 こんな雰囲気のなかに曹操軍は攻めて来ました。諸葛亮は作戦をたてましたが、 義兄弟のなかでも一番気性の荒い張飛諸葛亮の命令に文句をつけ、 命令をききませんでした。しかし関羽が「今回だけは諸葛亮の作戦があたるかどうか ためしてみよう」というので、なんとかおさまり「この計がはずれたら二度とおまえの命はきかん」といって、 やっと出陣しました。曹操軍新野から九十里のところまでやってきました。そこには 趙雲(ちょううん)の率いる一隊がいました。夏候惇 は「なんだあの兵力は」と笑いながら趙雲の隊に攻めかかりました。趙雲 は作戦通り戦っては逃げを繰り返し曹操軍を誘い込みました。趙雲の逃げっぷりはあやしいとかんじた 夏候惇の部下の一人が「趙雲の逃げっぷりはあやしいです。 伏兵(ふくへい 敵にきずかれないように伏せられた兵)がいるにちがいありません。」といいましたが 夏候惇は「いたならいたでけちらせばいい。少々の伏兵ではわが大軍の前では歯がたつまい。」といって、 追撃を続けました。するとそこには劉備率いる伏兵がいました。部下が「やはり伏兵です。」というと、 夏候惇は「これが敵の伏兵か。たいした数でもない。こざかしい虫けらめ、けちらせ。」といって、突撃しました。 そして趙雲劉備の隊は作戦どおり退却をはじめました。 夏候惇は「少々の小細工ではわが大軍には通じんことがわかっただろう。」といって追撃をはじめました。 そしてだんだんあたりの地形は狭くなっていきます。曹操軍の後陣にいた李典(りてん)干禁(うきん)「難道行くに狭く山川あいせまって草木の茂れるは火計のおそれあり」 という兵法を思い出し、干禁が先陣にいる総大将の夏候惇に軍をすすめるのを 自重(注意して行動)するように、言いに行きました。 しかし時すでに遅しでした。あたりから火の手があがり曹操軍の先陣は火に包まれ退却をはじめました。しかし退路には 関羽の養子関平(かんぺい)の隊がまちかまえており、木でつくった大きな玉に火をつけて崖から落としました。 これは戦争でよく使われる戦法です。先陣はこの火の玉攻撃(?)で大打撃をうけました。食料を運んでいた後陣は、火の手の上がった先陣を助けに行こうとします。 しかしそこには関羽の隊がいて、急襲をうけた魏軍の後陣も大打撃をうけました。中軍は、まず先陣をたすけに 向かおうとします。しかしここには張飛の隊がいて、中軍もまた大打撃をうけました。この戦で劉備軍曹操軍に死者3万、負傷者数万人の大打撃を与え、大量の食料も手に入れました。またこの戦いで関羽張飛諸葛亮の力を認め、以後命令に背くことはありませんでした。


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