性は関、名は羽、字は雲長。昔、人を斬ったことがありそれ以来故郷を奔走していました。
黄巾賊(こうきんぞく)の大乱のさなか、義兄弟の張飛(ちょうひ)と
ともに、劉備(りゅうび)とも義兄弟となり、兵を挙げました。その後は劉備軍の将軍として
張飛とともに劉備を支えました。
曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう 地方名)に攻めてきたとき劉備は敗れて生死がわからなく
なりました。関羽は自分が守っていた城をおとされ、討ち死にしようとします。しかし曹操軍の将張遼(ちょうりょう)
が「劉備が生きているかもしれないのに、自分だけ討ち死にするのか。それにおぬしが任されていた
劉備の妻子をどうするつもりだ」などといったので思いとどまりました。関羽は劉備が
生きていることがわかったら自分はそのもとにはせ参じるがそのとき邪魔をしない、などの条件をだして曹操
に降伏しました。その後曹操と袁紹(えんしょう)が戦になりました。関羽は日ごろの
曹操からの恩を返すため、その戦に参戦します。関羽は戦で袁紹軍の猛将である顔良(がんりょう)と
文醜(ぶんしゅう)を討ち取り不利だった曹操軍を助けました。その戦に袁紹軍として参戦していた劉備は
曹操軍にいる関羽を見つけました。劉備は関羽が生きていたのを見てほっとしました。
そして劉備は関羽に一刻も早く河北(かほく 袁紹軍のいるところ)に来るよう手紙を送ってきました。
手紙を見た関羽はよろこんで劉備のところに向かう準備をしました。関羽は曹操
にあって、河北に行くことを伝えようとしますが、曹操は関羽を手放したくなかったためにあおうとせず、
いつまでたっても関羽は劉備のところへ行くことができませんでした。そこで関羽は
曹操にあいさつするのをあきらめ、屋敷に手紙をのこしておくことにしました。そして関羽いっこうは
劉備のもとへ行くため旅をはじめました。途中曹操が追ってきて、
関羽に別れの挨拶をしました。そして関羽いっこうはまた旅をはじめました。劉備のところに
着くまでには、曹操の五つの関所(旅人の往来などを監視する場所)を通らなければなりませんでした。
関羽は曹操から関所を通るために必要な告文をもらっていなかったため、関所の役人は関羽を通すのを
拒みました。このため関羽はすべての関所でもめごとをおこし、役人を斬りました。それに怒った夏候惇(かこうとん)
が追ってきて関羽は一騎打ちをしますが、曹操の使者が来て一騎打ちをやめさせたため、
決着はつきませんでした。さらに旅を続けていると、旅のものが近くの古城をゆびさしながらこういいました。「昔はあの古城に山賊が住んでいましたが、
ある日張飛というものが部下とともにやってきて山賊を退治し住み着きました。いまでは役人さえ恐れて
だれも近づきません。わるいことはいいません。遠くの道から遠回りなさいませ」。関羽は義兄弟の張飛
に違いないと喜んで、その城に向かいました。その城には予想通り張飛がいましたが、
張飛は関羽が曹操のところにいたため、裏切り者と言って斬りかかってきました。
そこへ曹操の臣下で、おいを関羽に斬られた将が兵を引き連れてやってきます。
張飛は「あの将を斬ったら、曹操の命できたのではないと信じてやる」
といったので、関羽はその将のところへ行き、あっという間に斬り捨てました。これで張飛もようやく関羽を
信じました。そして関羽は、張飛を城の守りに残し、自身は劉備の
ところに向かいました。劉備はうまくき州(地方名)を抜け出し、関羽はようやく義兄弟すべてと再会しました。
さらに張飛のいる城に向かう途中、昔ともに戦った趙雲(ちょううん)がいて彼もともに
城に向かいました。
その後劉備は軍師諸葛亮(しょかつりょう)を 得、彼の活躍もあり荊州(けいしゅう 地方名)から蜀、漢中(かんちゅう 地方名)にまたがる大国を築きました。 関羽は荊州全土の守りを任されていました。劉備の勢力増大にたいして曹操は 呉と手を組みました。そこで孔明は二国が共同作戦に出る前に、 関羽に魏を攻めるようにいってきました。またこのとき関羽は五虎将軍(武勇が高く功績のある将軍に送られる称号) になりました。関羽はまず襄陽(じょうよう 地名)を攻め、簡単に魏軍を破り襄陽城を手に入れました。関羽は 自分が魏を攻めている間に、荊州が呉に落とされないよう 万全の備えをしてから、曹操の弟曹仁(そうじん)が逃げ込んだ、はん城を取り囲みました。 曹操はこれにたいし援軍を送りますが、関羽は水攻めでこれを全滅させます。 そんななか、呉の国境の都市陸口の新しい司令官に陸遜(りくそん)が任命されました。 陸遜は関羽を油断させるために、わざとへりくだった言葉で挨拶の手紙を書き、兵たちに任務中も酒を飲ませました。 関羽はこれにすっかり油断してしまい、荊州の守りにのこしておいた兵を魏との戦に回しました。 この隙に呉軍が荊州に攻め入り、荊州は呉のものになってしまいました。 関羽は荊州が落ちたことを知らず、はん城を攻め続けていました。しかし曹操はまた援軍を送ってきて 関羽は戦に敗れ、襄陽まで退却しました。そこで関羽は荊州が落ちたことを知りました。関羽は荊州を取り戻すため攻め入ります。 しかし兵たちは家族もいる荊州の兵と戦うのを嫌がり、大半が離散しました。関羽は残った兵を連れて近くの古城に逃げ込みました。 関羽は近くの上庸(じょうよう 地名)に援軍を求める使者を送りました。しかし何を思ったか、上庸では援軍を断られ 使者は遠く劉備のいる成都まで行くことになりました。その間関羽は援軍を待ち続けましたが、それも限界に来ました。 そこで関羽は城を抜け出し、軍備を整えることにしました。城には兵百人ほどを残し、関羽は呉軍の包囲を破って脱走を図ります。 関羽は包囲を突破しますが、そこには伏兵がいました。関羽は逃げ切れず捕らえられます。 関羽は孫権(そんけん)からの降伏を勧められますが断ります。そして関羽は首をはねられました。 このとき関羽五十八歳でした。