ここでは諸葛亮孔明の人生について紹介していますが彼は三国志の重要な場面にほとんど関わっているので彼の人生の紹介というよりほとんど三国志の内容になっています。 なお戦の細かい内容や人物の詳しい紹介はリンク先に書いてあります。 リンクがつながらないところは、現在制作中ですので、完成まで待ってください。
司馬徽(しばき 別名 水鏡先生)に 臥龍(がりゅう)または伏龍(ふくりゅう)と称されました。 孔明は次男で、兄の名は瑾(きん)といって洛陽(らくよう 漢の都)の大学で学んでいる秀才でした。 弟は均(きん)といいました。ふたりともきんです(笑)。父親が役人だったので比較的恵まれた家庭でした。 母親は早くに亡くなり、父珪(けい)は後妻をもらいました。その父も孔明が十歳になったころこの世を去りました。 義母は腹違いの幼い子供たちを抱えて途方にくれていました。そんな時兄の瑾が洛陽から帰ってきました。瑾は 黄巾賊(こうきんぞく)の大乱が洛陽にまでおよんできたことをつげました。 このため諸葛一家は江東(こうとう 地方名)の叔父、諸葛玄(げん) をたよって避難することにしました。この時期、諸葛一家にかぎらず大勢の民が南へ南へと避難していました。このとき孔明は大勢の難民を見て、 どうして人々は苦しむのかと考ました。そしてこう思いました。「この世の中に一人の偉人が現れれば、小さな人間たちが欲望をむきだしにして 世の中を混乱させることもないだろうに。」と。幼いのにこんなことを考えるなんてすごいですね!! 避難の旅は言葉にいいあらわせぬほどの苦難の旅でした。 飢えだけでなく、大自然の暴威もありました。この旅で孔明は生きぬく力を学びました。 そしてなんとか諸葛一家は叔父の玄のところにたどりつきました。ここで孔明は半年ほどすごしました。 ところが叔父の玄は劉表(りゅうひょう)の招きで 荊州(けいしゅう 地方名)へ行くことになりました。この荊州は三国時代の特に重要な地で、この地をめぐってたくさんの戦がおこりました。 しかし兄の瑾は長義母をつれて孫策伯符(そんさく・はくふ) のもとで大きくのびようとする呉にむかいました。 荊州でのなに不自由ない生活が一年つずいたころ、叔父の玄にかわって予章(よしょう 地名)を 治めていた周術(しゅうじゅつ)が亡くなったため、叔父の玄はふたたび予章の太守(一定の領地を治める人)に命じられました。 ところが任地につくと、そこには漢朝から予章の太守に任命された失晧(しゅこう)というものがきていました。 お互い太守になりたかったので戦争になりました。しかし、叔父の玄は戦に敗れました。 そのため、玄と孔明たちは荊州の劉表(りゅうひょう)のもとにみをよせました。 玄は戦場で死んだ可能性もあります。 その後孔明は荊州ですごし、十七歳のとき大学者、石とうの門をたたきました。 ここには石とうの名を慕って各地からすぐれた門人が集まっていました。 徐庶(じょしょ)もその一人でした。 ここで孔明は頭角をあらわしました。その才は群をぬき、二十歳になるころにはそこで学ぶこともなくなっていました。 孔明はその年で弟の均とともに、隆中(りゅうちゅう 地名)の山中にある草廬(そうろ)にひきこもって、 農耕に従事しながら臥龍(伏龍)先生としょうして、晴耕雨読の生活をしはじめました。それ以後孔明のところをたずねてくる友人はすくなくなりました。 たずねてくるものは孔明のおそろしいほどの才能をみぬいたものたちだけでした。 孔明は友人たちに将来のことを聞かれても、にやっとするだけでなにも答えませんでした。 孔明は出世や名誉はのぞんでいませんでした。孔明はこどものときにみた難民の群れの姿をわすれることができませんでした。 万民すべてが安心して楽しく過ごせるような世の中をつくろうとしている偉人をたすけたい。 孔明はこうかんがえながら、田舎でそのような人物が現れるのを待っていたのです。 またこの頃孔明は結婚しました。相手は河南の名士黄承彦(こうしょうげん)の娘でした。 その娘は色は黒く髪は黄で醜い容貌で、「孔明の嫁選びのまねはすまいぞ」といわれるほどでしたが、天文地理兵法に秀でた才女でした。 コーエーの三国無双シリーズでは月英(げつえい)として登場します。
建安十二年(207)徐庶は母が曹操(そうそう)の城に招かれていたので、 母に会うため劉備(りゅうび)のもとから曹操のところへ向かおうとしていました。 見送りにきた劉備に徐庶は孔明をたずねるようにいいました。そして劉備は 隆中にいる孔明をたずねてきました。しかし孔明はでかけていて草廬にはいませんでした。 しかし劉備はあきらめません。 しばらくして、吹雪が吹き荒れる日、孔明在宅とのしらせをうけた 劉備はもういちど孔明をたずねます。しかし、草廬にいたのは弟の均でした。 劉備はまたしても孔明にあえず、どうして自分は孔明と縁がうすいのかとなげきながら、 自分の思いを書い手紙を弟の均にあずけてかえりました。 それからしばらくして劉備はまた孔明をたずねました。そして今度は孔明は草廬にいました。 しかし孔明は昼寝をしていました。ですが劉備は起こそうとせずに待っていました。 孔明が起きて、ようやく劉備と孔明は対面しました。劉備は、 孔子(こうし 儒教の祖)の例などをだし、天下万民のために立ち上がってくださいとたのみます。すると 孔明は有名な天下三分の計を劉備にはなします。 大きくなりすぎた魏の曹操を討つのは不可能。 そして三代にわたって発展してきた呉を奪うこともまた不可能。 ならば、そのどちらにも属していない荊州と益州(えきしゅう のちの蜀)に勢力を興し国を三つにわけ、 その後、曹操の野心を砕く。これが孔明の天下三分の計でした。これを聞いた 劉備は「これからもそばで私にお教えください。」といいます。しかし孔明は初めことわります。 しかし劉備の国を思う姿に心をうたれ、ついに劉備に 協力することをきめ出廬(しゅつろ)しました。これが三顧(さんこ)の礼です。このとき孔明は二十七歳でした。しかしこの話は三国志演義の話で 国の行く末を案じた孔明が自ら劉備を訪ねたという話もあります。
そのころ曹操は南方攻略のための軍議を毎日のようにひらいていました。 そして孔明が農民から兵をつのり軍事鍛錬をしているのを知ると、劉備があとあと厄介な存在になるのをおそれて、 南方制覇の第一歩として新野(しんや)にいる劉備をほろぼすことにしました。 夏候惇(かこうとん)を総大将(軍の最高司令官)とした曹操軍は十万の大軍を率いて 新野へと攻め込んできました。そのころ新野では劉備と 孔明があまりにも仲良くしているので劉備の義弟(ぎてい)の 関羽(かんう)と張飛(ちょうひ)は孔明をきらい、 劉備に「殿はひとにほれこみすぎるのではありませんか」にいいました。 まーいわゆる嫉妬です(笑)。すると劉備 は「私と孔明は水と魚のようなものだ。」といいました。関羽と 張飛はそれ以上はいいませんでしたがその後も孔明をきらっていました。 こんな雰囲気のなかに曹操軍は攻めて来ました。孔明は作戦をたてましたが、義兄弟のなかでも一番気性の荒い 張飛は孔明の命令に文句をつけ、命令をききませんでした。しかし関羽が 「今回だけは孔明の作戦があたるかどうかためしてみよう」というので、なんとかおさまり「この計がはずれたら二度とおまえの命はきかん」といって、 やっと出陣しました。これが孔明の初陣(ういじん 最初の戦)でした。孔明の作戦により劉備軍は 大勝利を収め曹操軍は撃退され退却しました。この勝利でようやく関羽と 張飛は孔明のすごさをみとめました。 大勝利に劉備が喜んでいると孔明は「ご安心なさるのはまだ早いです。 今度は曹操自身が攻めてくるでしょう。そうなるとこの城(新野城)では曹操軍には たちうちできません。いまこの新野をのいて曹操軍に立ち向かえる場所は荊州 しかありません。今荊州の国王劉表は危篤の状態です。ここで殿が荊州の 豊富な軍需物資をかりて良計をたてれば曹操と互角に戦えます。」と言いました。というのも、 劉備は劉表に深く信頼され、これまでにも「荊州を継いでくれぬか」と言われてきましたが、 その度に断ってしました。恩人の不幸を自分の喜びに変えられないというのです。劉備らしいですね。 しかし「今荊州をとっておかなければかならず後悔します。大儀のためにそのような感情は 捨ててください。」と孔明はいうわけです。しかし劉備はそれでも荊州をとることはできないといいます。 孔明はひとまずあきらめました。夏候惇が戦に敗れて曹操はこれ以上劉備 をのさばらしておくわけにはいきませんでした。そこでこの機会に南方を平らげようと自ら五十万の大軍を率いて荊州に攻めこんできました。 このとき荊州の牧(ぼく 統治者)の劉表は病に倒れており、自分の命があとわずかしかないとさとっていました。 そこで劉表はまた劉備に後を継いでくれるようたのみます。しかし 劉備はまた断ります。劉表はあきらめ、先妻の産んだ子である長男劉g(りゅうき)に 後を継がせることにしました。そして劉備には「劉gの後ろ盾となってこの国を守ってくれ。」と言い遺言状を書きます。 しかしこれを聞いていた劉表の第二夫人蔡(さい)は自分の生んだ子劉j(りゅうそう)を後継ぎにしたいので困りました。そこで兄の 蔡瑁(さいぼう)に相談に行きます。蔡瑁は荊州の軍事面を任されている男でした。この二人はこれまでにもなんどか劉備を 暗殺しようとしてきましたが失敗していました。そんなとき、前に蔡に殺されそうになったので一時江夏(こうか)に行っていた 劉gが父劉表の重病の知らせをうけて帰ってきました。劉gを劉表に会わせては後継ぎになったことが決まってしまいます。 そこで蔡瑁はいろいろ口実を作って劉gを江夏に帰らせました。そして遺言状を偽造して劉jを後継ぎにしてしまいました。そして 曹操に降伏してしまいました。これを劉備が知ると 孔明は「こんどこそ蔡瑁たちを討って荊州を奪うべきです。」といいます。しかし劉備はそれでも 荊州を奪おうとしません。その間にも曹操軍はせまってきます。新野では曹操軍にたちうちできないので、 劉備たちは防戦しながらどこかへ逃げることにしました。 そして孔明の作戦でなんとか江夏と夏口(かこう)(二手にわかれた)にたどり着きました。
荊州を手に入れた 曹操は次の目標である呉の国境に百万近い兵を配置して威圧しながら、 呉の態度を見ることにしました。そこで「ともに劉備を討とう」という手紙を 呉の国王孫権(そんけん)に送りつけました。この手紙を受け取った呉では 魯粛(ろしゅく)「がひとまず劉備のところへ行って様子を見てきます」と言って、 劉備のいる江夏へ向かいました。そのころ江夏では 孔明が「天下三分の計を実現させるには魏と呉を争わせて 両国を疲弊させその間にわがほうは力を蓄える。」という説明を劉備にしていました。そこへ 魯粛がやってきました。そこで孔明は魏と呉 を争わせるために、魯粛と一緒に呉に向かいました。その後孔明の活躍で三国時代一の大戦といえる 赤壁(せきへき)の戦いがおこり劉備と呉 の連合軍は曹操の大軍をやぶります。曹操自身はひとまず都に撤退しました。 後の押さえには曹操の弟の曹仁(そうじん)や 張遼(ちょうりょう)、夏候惇などを残していきました。 その後、曹操が撤退したあとの荊州城・襄陽城・南城をめぐっての争い がおきます。そして劉備は孔明の作戦でうまく三郡を手に入れます。呉の 水軍提督(水軍の総司令官)周瑜(しゅうゆ)はこれに怒ります。せっかく赤壁(せきへき)の戦い に勝ったのに劉備に荊州をとられては、戦に勝った意味がなくなってしまいます。そこで周瑜 は劉備と戦おうとしますが、 魯粛がとりあえず話を聞いてくると言い劉備のもとにいきました。 そして劉備に「呉は戦に勝った。 その戦果として荊州は呉のものになるのが道理ではありませんか。」といいます。すると孔明は 「それは異なお言葉。荊州の地は荊州のものです。 故荊州王劉表の長男劉g殿はわが君(劉備)のもとで養われています。その劉g殿を助けて荊州 を立て直すのに何の不道理があるのです。」といいました。これには魯粛も反論できませんでした。そこで病弱な劉gは いつ死ぬかわからなかったのでそのときは呉に荊州を返すという約束をして帰りました。 これを聞いた周瑜がどうしようか悩んでいると主君孫権から 「合肥(がっぴ)の城(魏と呉の国境でかなりの要地)を攻めているが なかなか勝利をえられないのでいそいで呉に引き返してくれ」 という使者がきました。周瑜はしかたなく呉に引き返しました。 劉備はその後荊州全土を手に入れるため 残りの四郡に向かって侵攻し平定します。
劉備が四郡を平定した頃呉の 孫権はまだ合肥の城の攻略にてをやいていました。 合肥の城は曹操が都に帰るとき張遼に任せていった要地で 張遼は期待にこたえよく戦い呉軍をよせつけませんでした。そしてついに 張遼は呉軍を撃退しました。 その後劉gが病に勝てずついにこの世を去ります。 それからまもなく魯粛が劉gの喪を弔うと称して荊州 にやってきました。名目は劉gの喪を弔うことですが本当の目的は荊州の問題のことです。 魯粛が「劉gどのがお亡くなりになられた今、約束どおり荊州は 呉にお返しください。」というと、孔明は「故荊州王劉表とわが君は血縁関係にあります。 彼なきあとその血をひくものが荊州をついでなんの不思議があるのです。 また赤壁の戦いの勝利は呉の力だけだけのものではありません。 私が東風をよばなければ火計もつかえず、呉軍は敗れていたでしょう。」と言います。魯粛は 「当時曹操と戦うのに反対するものが多かった呉を 曹操と戦うようにしたのは私です。その私が前は荊州を返してもらえるといったのに 今度はだめだと伝えたら私の立場はどうなるのです。」といいます。孔明は「ならば荊州は わが君が借りているということにしましょう。後日蜀をとったら荊州は 呉にお返しします。」といって借用書を書きました。魯粛は帰る途中 周瑜のところによって借用書をみせ孔明とのやりとりをはなしました。 すると周瑜はあきれ「たしかにこれは荊州を借りたという借用書だ。 しかし蜀をとったら返すとあるがそれはいつのことだ。十年先か百年先か。それにおぬしまで保証人になっている。 これで劉備が荊州を返さなければおぬしもまきぞえで責任をとらされるぞ。」 といいました。しかしそんなことをいっていてもしかたないので、周瑜はある計略を 魯粛にはなしました。劉備に孫権の 妹(三国無双シリーズでは孫尚香(そんしょうこう)として登場)を嫁がせ結婚式を呉であげるようにし 劉備が呉にきたところで隙をみて 殺すという作戦でした。この作戦を聞いた孫権は劉備に 使者を送り結婚の話を伝えました。孔明は「危険ではありますがわが君と妹君が結婚すれば両国の衝突はさけられます。またわが君もそろそろ ご結婚なさってもいい歳です。」といったので劉備は結婚することにしました。 孔明は劉備の護衛のために趙雲(ちょううん)に 呉に行ってからの行動順と困ったときの対処法を書いたものを持たせ同行させました。 呉についた劉備たちは孔明の作戦どおりに行動し、危険をくぐりぬけ、 劉備は孫権の妹と結婚しました。 二人が結婚してしまったので困った周瑜は次の作戦を考えました。 劉備に酒と女と美食をあたえてだらくさせ優れた家来が去っていくのを待つという作戦でした。 この作戦で劉備はだらくしかけますが、孔明からもらった作戦を見た趙雲が 「荊州に曹操軍が攻めてきました。すぐにおかえりください」と劉備に言い劉備 が迷っていると「自分の国が危機に陥っているのになにを迷われるのです。わが君、昔のわが君にもどってください。」と 言ったので劉備はわれにかえり荊州に帰る決心をしました。 すると夫人もついてくるといい、正月、城内に人目が少なくなったころで劉備一行は城から抜け出し 荊州に向かいました。それを知った孫権は怒りすぐに 追撃命令をだしました。ですが夫人が追ってきた孫権の家来たちを主君の妹という立場を利用して 頭ごしにいいきかせたので追っては手を出すことができませんでした。そしてなんとか孔明が趙雲に指定した漁村まで逃げることができました。しばらくすると 孔明が軍船を率いて現れました。そこから船で逃げていると次は周瑜が水軍を引き連れて追ってきました。 しかしそれも孔明の計算のうちでした。劉備たちは作戦どおり陸地に上陸し、 追ってきた周瑜の軍を伏兵で打ち負かし退却させました。周瑜は 荊州城・襄陽城・南城をめぐっての争いのときに受けた矢傷が原因で、怒ると高熱が出て血を吐く病に かかっていました。退却するとき周瑜は劉備軍の兵に愚弄され病が再発し倒れました。 これを聞いた孫権はとても怒り荊州に攻め入ろうとします。 しかし重臣に「曹操がすぐにでも赤壁の戦いの うらみをはらそうとしないのは、われわれと劉備の連合を恐れているからです。 ここで曹操がわれわれと劉備が 不仲だとしったらあるいは劉備を抱き込もうとするかもしれません。」 といって説得されなんとか思いとどまりました。そして外交は我慢という重臣の言葉におされ劉備を 荊州の牧にするよう朝廷に表文(まあ申請書みたいなものですかね)をささげました。これを聞いた曹操は 一番恐れている人物劉備がついに大きな土地を手に入れてしまったので、なんとかしなければと考えました。 そこで周瑜を南郡(劉備の土地) の太守に任命することで劉備勢力と呉を争わせようとしました。曹操は天子(皇帝)を擁していたので こんなこともできたのです。
任命書を受け取った周瑜は、「南郡の地は劉備のもので 自分の得る土地は少しもない。しかも劉備は主君の妹の婿でありどうしようもない。」という内容の手紙を 孫権におくりました。孫権が困っていると魯粛 が「自分の責任でございます。もう一度荊州に行き、今度こそ話をつけてまいります。」と言ってまた荊州に向いました。それを知った孔明は 劉備に「なにか聞かれたらわが君は魯粛のまえで泣いてください。」といいました。 そして魯粛がきて荊州のことを聞くと劉備が作戦どおり泣き出します。 魯粛が「いかがなされました。」と聞くと孔明が「わが君は蜀をとって荊州を 呉に返すと約束しました。しかし蜀の君主劉璋(りゅうしょう)も、もとをたどればわが君と同族。 もし理由もなく蜀に攻め入れば世間はツバをはいてわが君をののしるでしょう。しかし荊州を呉に 返せばわが君は身をおく場所もない。それでわが君は心を痛めているのです。魯粛どの、わが君の苦境を 主君に伝えてもらえませんか。」といいました。しかし魯粛は「そんなことを報告したらわたしの身が 危ない。」といって断ります。しかし最終的には説得に負け、そのまま帰りました。魯粛は荊州から帰る途中 周瑜のところによりました。周瑜は魯粛から 荊州での劉備たちとのやりとりを聞きました。すると魯粛が 前にも孔明にしてやられたこともあって「君は他のことはできても、外交官の才能は零だな。」といい、荊州を 奪うためのある作戦を教えます。それを聞いた魯粛は再び荊州にもどって劉備 たちと会いこう言います。「立ち帰り劉備殿のご苦衷(くちゅう)を主君に伝えましたところ大いに同情され、 すぐに会議を開き一つの案をたてられました。劉備の名で蜀へ攻め入るのがいやなら呉が 直接蜀をとってさしあげます。ただしその際に荊州を通過し多少の軍需兵糧を補給するという確約を結んでいただきたい」 孔明はこれが周瑜の策であるとわかりながら「それは助かります。わが君も喜んで協力なさるでしょう」と言います。 魯粛は周瑜のところへ帰りこのことを報告します。すると 周瑜は「やった。はじめて孔明をあざむくことができた」と言って喜び作戦を主君 孫権に伝えます。呉軍はただちに行動を開始します。そして荊州につきました。しかしなんの出迎えもないので 不審に思います。そして荊州城へ行くと城門はしまっています。周瑜の家来が城門をあけるように城に向かって叫ぶと 趙雲が現れこういいます。「周提督なにしにまいった!」当然周瑜は自分の策が ばれているとは知らないので怒って「なにしにまいったとは無礼である。われわれはお前たちのために蜀を取りにきたのではないか。」 と言います。すると趙雲が「ふふふ。子供ならいざしらずわが軍師がその胎を読めぬと思っているのか。 道を借りて草を枯らすの計、わが軍師はとくとお見通しだ。お望みなら一戦を交えてもいいぞ。」といい、城壁の上にたくさんの 弓兵があらわれます。もうお分かりとおもいますが周瑜は荊州を通過するふりをして奪おうとしていたのです。 周瑜がおどろいてひきあげると、斥候(あたりを偵察している者)が走ってきて「劉備軍が四方からせめてきます。」 といいます。周瑜は「またしても孔明にはかられたのか。」と嘆き、怒りのあまりまた病気が再発し血を吐いて倒れました。 なんとか船まで引き上げて休んでいる周瑜のところへ、孔明からの使者が来て手紙をわたします。その手紙には 周瑜のことをすべて見通しているといわんばかりのことが書いてありました。周瑜は 「孔明は何もかも見通していた。私のやることなすことすべてこれほどみごとに見通していたとは。人生とは無情だ。天はこの私を地上に生まれさせながら、 なにゆえ孔明までうまれさせたのだと。」いって大量の血を吐き死にました。そう、孔明は周瑜を 筆殺(笑)したのです。このとき周瑜は三十六歳でした。
呉軍は悲しみにつつまれ呉にひきかえしました。その後 天文を見て良い将が東のかた(呉の方角)にいると見た孔明は周瑜の葬式のくやみ という口実で呉に向かいます。呉の将は怒って孔明を斬ろうとしますが、 周瑜の後を継いだ魯粛の説得でなんとかおさまります。呉 から帰る途中孔明はほう統(ほうとう)に会います。そして「放浪をしているぐらいなら、わが君 劉備に仕えぬか。もし仕える気になったらこの手紙をもって荊州に参られい。」といって手紙を渡し帰りました。 その後ほう統は荊州に来て劉備の家来になり、 副軍師中朗将という職に任じられました。職名はどうでもいいです。要は孔明の片腕ともいえるほどの重職です。 劉備がほう統を副軍師として迎えたことを知った 曹操は、早く南方にいる劉備を倒さなければ彼が天下統一の最大の障害になると考えます。 そこで、まずは周瑜がいなくなった劉備と一応同盟している 呉から滅ぼそうと考えます。そのためには西涼(せいりょう 地名)の太守馬騰(ばとう)を倒しておく必要がありました。 そこで曹操は彼を勅命(朝廷の命令)という形で都におびき寄せ殺害します。それで安心して南伐に向かおうとした 曹操ですが西涼にのこっていた馬騰の長男の馬超(ばちょう) が、曹操が味方と勘違いしていた韓遂(かんすい)とともに二十万の大軍を率いて 魏に攻め込んできました。そして長安から渭水にかけての戦いが起こります。 序盤は劣勢でしたが曹操はなんとか勝利します。戦に敗れた馬超とその家来たちは 漢中(かんちゅう)に、逃げ込みました。漢中の師君(しくん 教主 太守みたいなもの)の張魯(ちょうろ)は親しくしていた西涼の馬騰 が死に、その息子馬超が戦に敗れたので、いつか曹操が攻めてくるだろうと思い どうしようか考えていました。そんなとき農民の一人が玉璽(ぎょくじ 帝の位につくものがもつもの)を畑で見つけ張魯に献上しました。 張魯はこれは天からのお告げだと思い孔明が劉備に建国の地として勧めている 蜀をとって帝王を名乗ろうとしました。これを知った蜀では 張松(ちょうしょう)が「大国の力を借りて国を守ってもらうのです。」と言ってまず天下に敵なしといわれる魏 の曹操のところへ向かいました。これを間者(かんじゃ)から聞いた孔明はただちに人を送って その様子を探らせました。都で曹操に会った張松は、曹操 が噂と違って傲慢だったので曹操に国を守ってもらうことをあきらめました。しかしそのまま国に帰るわけにはいきません。 そこで張松は仁義の噂高い劉備に国を守ってもらおうと考え荊州に向かいました。 張松が荊州に向かっていると、すでに来ることを知っていた劉備たちの手厚い歓迎をうけます。 そして荊州についてからも劉備は張松に蜀について聞こうとせず、 手厚くもてなします。張松は劉備が曹操と違って噂どおりの すごい人物だと思いこの人に蜀の国を治めてもらおうと考えます。そこで張松は送別の酒宴で 劉備に「これからの蜀はわが主君劉璋では守りきれませぬ。 劉備殿、蜀をとってそこから中原(曹操の 領地があるところ)に攻め入って曹操の野望を砕いてください。」と言って蜀のことが 隅々まで書かれた地図を劉備に渡して蜀に帰りました。蜀 についた張松は劉璋に「漢中の張魯から蜀を守ってもらうには 劉備殿の助けを借りるのがようございます」と言いました。劉璋は他の家来たが反対するのには耳をかさず張松 の勧めた人物を使者にして劉備におくりました。そして劉備は孔明や ほう統に説得され蜀に向かう決心をしました。名目は漢中の張魯から 蜀を守ることです。遠征軍はほう統を軍師とした精鋭五万ときまり孔明や 関羽や張飛、趙雲は荊州に残ることに なりました。劉備が蜀に向かってからしばらくして、張松が 劉備に宛てた手紙を劉璋が見てしまいました。そのため蜀を取ろうとしていることがばれ ます。その後の劉璋との戦いでほう統が死にますが蜀を平定します。こうして天下は 劉備の蜀、曹操の 魏、孫権の呉と三国に分割されました。
劉備が蜀を平定したら荊州を返すと約束したのに 何の連絡もないので、孫権は孔明の兄諸葛瑾を使者にしておくりました。ですが 劉備と孔明は諸葛瑾をうまくあしらって、荊州は呉の ものにはなりませんでした。都の曹操は劉備が蜀 を平定したのでこのまま放ってはおけず、まずは蜀への入り口である 漢中の張魯を攻め漢中を平定します。 劉備は蜀を平定したばかりなので、漢中を平定した 曹操が攻めてきたとき家来たちが一致団結して戦えるかどうか不安でした。そこで孔明は 曹操の目を他に向けさせるために荊州のうちの 長沙(ちょうさ)、零陵(れいりょう)、桂陽(けいよう)の三郡を返すという条件で呉に 魏の合肥の城の城を攻めて攻めてもらいます。 呉軍は一度敗れます が再び攻めようとします。そこで曹操はひとまず蜀はおいておいて、 呉に攻め込みます。 曹操は呉を滅ぼすところまではいきませんでした が、呉に毎年の貢物を誓わせたので満足してひきあげます。 その後都で反乱がおこりますが曹操は鎮圧します。劉備は反乱が起こった すぐの今なら曹操は都を空にすることはできないだろうということで漢中に攻め入ります。 そして孔明指揮のもと漢中を平定します。漢中を平定した劉備 に孔明は皇帝を名乗るようにいいます。しかし劉備は断ります。そこで孔明はひとまず漢中王を 名乗るようにいいます。劉備はこれも断りますが孔明の説得によって劉備は 漢中王を名乗り帝に奏上しました。帝は喜んでこれを認め劉備に漢中王 領大司馬の印綬を 送りました。ところがその後漢中をとられた曹操は呉と同盟を結びます。 そして魏は呉と協力して関羽の治めている 荊州を攻めようとします。そこで孔明は関羽に敵が攻めてくる前に魏を攻めるように 言います。その先制攻撃で関羽は大勝利し、敵の総大将曹仁(そうじん)のいる樊城を 取り囲みます。魏は援軍を送ってきましたが関羽の水攻めで壊滅します。ところが 関羽が魏を攻めている間に呉が荊州に攻め入り 攻め落とします。関羽は荊州を取り戻そうとしますが呉軍に敗れ捕らえられ打ち首にされます。義兄弟 関羽の死に劉備は怒り、 呉に攻め入ろうとしますが、このときは孔明になだめられなんとかおさまります。
その後魏の曹操が病で死にます。そして長男の 曹丕(そうひ)が後を継ぎます。すると曹丕の家来は帝を脅しました。そして半ば強制的に帝 は曹丕に帝位を譲り、曹丕は皇帝を名乗りました。翌年孔明は 曹丕の帝位即位を認めないということを天下に知らしめるために劉備に帝位に つくようにいいます。劉備はやはりことわりますが、孔明は昔の皇帝の例などをとって 劉備を説得し帝位につかせます。劉備が帝位につくと孔明は 丞相(軍の最高責任者)となりました。帝位についた劉備はまた関羽を殺した 呉を攻めようとします。一度は孔明の説得でおさまります。しかしもう一人の義兄弟の 張飛がなんとしても関羽の仇を討ちたいと言ったので、 劉備は周りの反対を押し切り七十五万の大軍を率いて呉に攻め入ります。 しかし攻め入ろうとした矢先張飛が部下に暗殺されその犯人が呉に亡命しました。 劉備はますます怒って攻め入ります。しかし最初蜀軍は戦を有利に進めますが、陸遜(りくそん)の火計によって壊滅します。 そして白帝城に逃げ込んだ劉備は敗戦によって将兵を多く失ったショックで危篤におちいり、 成都から孔明を呼びました。孔明は劉備に「もし後継ぎの劉禅(りゅうぜん)が 帝王の器ではないときは丞相、君がみずから帝となって蜀を治めてくれ。」とまで言われますが 劉備に改めて忠誠を誓います。劉備はその後まもなく亡くなります。 そして孔明は劉禅を帝位につかせ蜀の軍政を一手に握りました。
劉備が亡くなると魏の曹丕は幼い 劉禅が帝になった蜀を今なら滅ぼせると思い鮮卑(せんぴ 北方の民族)や 南蛮(なんばん 蜀の南の辺りの民族)、呉にも使者を送って兵をださせ 五路から合計五十万の兵で蜀に攻め入ります。しかし孔明の策のまえに魏の 五路侵攻作戦は大失敗に終わります。その後孔明は呉との昔の恨みは水に流し使者を送って同盟を結びます。 魏は裏切った呉に攻め入りますが大敗しかなりの損害をだします。 その後蜀の国内で南蛮王孟獲(もうかく)の支援をうけた南部の郡が 反乱を起こします。孔明はこの機会に国内の憂いを取り除こうと思い、自分自身で五十万の兵を率いて南蛮討伐に向かいます。 孔明はまず反乱を起こした南部の郡を平定しその後南蛮に向かい孟獲を心服させます。 孔明が南伐から帰ると五虎将軍(ごこしょうぐん 武勇が高く功績のある将軍に送られる称号。蜀の五虎将軍は 関羽、張飛、趙雲、 黄忠(こうちゅう)、馬超)の馬超が病に倒れ そのまま亡くなりました。さらに魏でも曹丕が病に倒れあっけなく息をひきとりました。 そして曹丕の子曹えいが後を継ぎました。すると孔明が魏で唯一恐れている人物 司馬懿(しばい)が自ら望んで西涼の地の守りにつきました。司馬懿が西涼に いては北伐(魏を討つこと)に大きな障害ができます。これを危険に思いどうしようか迷っている孔明のところに、もう一人 蜀で司馬懿の恐ろしさに気づいている馬謖(ばしょく)が訪ねてきました。 そして魏に司馬懿が謀反(むほん 反乱を起こすこと)をたくらんでいるという噂を流し 司馬懿を失脚させるという策を献策(けんさく 策を提案すること)し孔明の了承を得て実行しました。 この策は成功し司馬懿は官職をすべて奪われ郷里に追われました。これで安心した孔明は今こそ 魏を討ち先帝劉備の志をとげるときだと考え、その日から家にこもって出師の表を 一句一章心血をそそいで書きはじめました。この出師の表を読んで泣かない者は人ではないといわれるほどの名文です。そして劉禅の了承を得た孔明 は三十万の兵を率いて漢中を出、いよいよ北伐に向かいます。
これに対し魏では豪族の夏侯楙(かこうぼう) 蜀軍が漢中に攻め込んだときに斬られた 夏候淵(かこうえん)の息子)が父の無念を晴らすために自ら進んで蜀軍を防ぐ 役目をかってでます。孔明は戦の経験のない夏侯楙を打ち破り天水、南安、安定の三郡を手に入れます。 出陣前に孔明を生け捕るまで魏には帰らないといってしまった夏侯楙はその後二度と魏には 帰ってきませんでした。さようなら・・・。またこの戦いで孔明は姜維(きょうい)という人物を降伏させました。 彼は孔明に生まれて初めての敗戦をさせ、蜀に降伏した後は孔明の片腕として、また孔明の死後は後継者として 活躍します。その後魏は戦経験豊富な大将軍の曹真(そうしん)を総大将にし、蜀軍の迎撃にあたらせます。 孔明はまず奇襲によって魏軍に大打撃を与えます。打撃を受けた曹真は中国の西にある西羌王国に使者を送り 蜀軍の背後を突いてもらいます。孔明は曹真は打撃を受けたばかりで動かないだろうと考えまず西羌王国の軍を打ち破ります。 その後孔明は軍を偽って退却させます。西羌王国に背後を突かれた蜀軍が逃げ出したと勘違いした曹真は追撃します。 孔明は伏兵によってこの魏軍を撃退します。この戦に敗れた曹真は 渭水(いすい 漢中と長安(ちょうあん 魏の西の要所)の間辺りを流れる大河)から総退却します。この危機に 魏は騒然となります。すると重臣の一人がこういいます。「今魏において孔明と互角に渡り合える者は 司馬懿だけです。あの謀反の噂は蜀の謀略であったと思われます。なぜなら 司馬懿が郷里に追われてすぐに孔明は動き出したからでございます。」これにより 司馬懿はもとの官職に戻り、さらに蜀軍撃退の都督(ととく 軍の総大将)に任命されました。 司馬懿が蜀軍の輸送路である街亭(がいてい)に目をつけるとみた孔明は誰かに守らせようとします。 すると馬謖が自分に任せてくださいといいます。孔明はそれを認め馬謖に副将として王平(おうへい)をつけ「街亭についたら 魏軍が容易には通れぬように道筋をしっかりおさえよ。もし無事に守ることができたら長安攻略の最上の手柄じゃ。」といって出陣させます。 しかし何か不安を感じた孔明は高翔(こうしょう)や魏延(ぎえん)を街亭の近くの要所に配置して万全の体制を 整えました。また趙雲らを箕谷(きこく 地名)方面へ進軍させました。しかし街亭についた馬謖は魏軍 がこんなところに軍を送ってくるわけがないと思い、孔明の命を無視して山頂に陣を張ろうとします。王平は反対しますが馬謖は聞き入れません。 王平はしかたなく五千の兵を分けてもらいその兵で道のそばに陣を張ることにしました。司馬懿は孔明の読みどおり 街亭を奪おうとします。街亭に蜀軍の守備隊がすでにいるのを知った司馬懿は「とても孔明には 及ばない」と嘆きますが、偵察に行った者から蜀軍は道筋を押さえておらず山頂に陣を築いていると聞いて、「それでは奪ってくれといわんばかりではないか」と言って確かめにいきます。 するとその者のいうとおり馬謖は山頂に陣を張っており、道のそばに王平の一隊があるだけで道筋を押さえていませんでした。 さらに偵察すると山頂には水がないことがわかります。そこで司馬懿は山を包囲し、水汲み場を押さえました。 馬謖は逆落しで魏軍を撃退しようとしますが、まったくうまくいきません。その後水がなくなった蜀軍の兵が次々に魏軍に投降します。 そこで馬謖は魏軍の包囲を突破して山を下り、列柳城(れつりゅうじょう 街亭の近くにある城で高翔がいる)へ 向かおうとします。しかしそれもうまくいかず、うまく包囲された蜀軍は袋叩きにされます。救援に駆けつけた高翔や 魏延らも魏軍に撃退されます。ぼろぼろになった彼らは街亭を捨て、漢中を守ることにし退却しました。 街亭の没落を知った孔明は総退却を決意します。魏軍の追撃をうけますが蜀軍はなんとか漢中に退却しました。 漢中についた孔明は才能をうたわれていた馬謖を泣きながら処刑します。「泣いて馬謖を斬る」の場面です。 また自分の位を三階級おとして右将軍となり、全軍に信賞必罰(しんしょうひつばつ)の姿勢を示しました。 その後、 呉軍が石亭において魏軍をやぶります。 いまなら魏はまいっていると見た孔明は出陣します。 しかしその少し前、五虎将軍の最後の一人であった趙雲が病に倒れ息をひきとりました。 孔明はまず陳倉(ちんそう)城を攻めます。しかしここには名将かく昭がこもっており孔明は城を落とすことができず足止めをくらいます。 これまで城を落とすのにここまで苦労したことのない孔明は意地になって攻め続けていましたが、姜維の 進言により目を覚まします。そして計略によって三万ちかい魏兵を戦死させます。 しかし蜀軍の兵糧は残り少なくなっていて、敗戦を聞いた敵はまた新たな援軍を送ってくると考えた孔明は漢中に退却します。 曹真はまさか蜀軍が退却するとは思わず、孔明たちは悠々と漢中へ引き返しました。 また先陣の魏延の軍は敵の追撃をうけますが、追撃ということで勢いにのって追いかけてきた敵将の王双(おうそう)を 魏延が一刀のもとに斬り捨て、こちらもまた悠々と漢中に退却しました。 王双が斬られたと聞いた曹真はそれまで孔明との戦に敗れ続けた心労も重なって病に倒れ、後の守りを部下に任せ養生のため洛陽に帰ります。
その頃蜀と魏が争って互いに国力を消耗しているのを、ひそかに喜んでいた 呉の孫権は着々と力を蓄えていました。 そして蜀や魏にならって孫権は 皇帝を名乗りました。孔明は呉との同盟をより強化するために孫権 が帝位につくことを認めるように劉禅にいいました。劉禅は贈り物を使者にもたせ呉に送りました。
漢中にいる孔明のもとに陳倉城のかく昭が重病だという情報が間者からもたらされます。そこで孔明はまず 魏延と姜維に五千の兵をあたえて「三日のうちにしたくを整え陳倉城を 攻めよ。」といいます。二人は数万の兵でも落とせなかった陳倉城を五千の兵で落とせという命令に驚きますが、命令ならば仕方ないとういうことで 準備を始めます。かく昭は敵がくるまで三日あるということ、そして兵力が五千しかないということでで油断していました。 その間に孔明は関羽の息子関興(かんこう)と張飛の 息子張苞(ちょうほう)を引き連れて違う道をとおり、忍ばせておいた間者に火を放たせて城門をあけさせ、その混乱にまぎれて 陳倉城を落とします。そしてこれまでと同じようにき山(長安を攻めるときに通る山の一つ)に進出します。 魏では司馬懿が病に倒れている曹真から総兵の印(全軍を指揮するものがもつ印) を受け取り防衛にあたることになりました。ここに孔明と司馬懿の初の直接対決がはじまりました。 孔明は司馬懿が来る前に陰平郡(いんぺいぐん 地名)と武都郡(ぶとぐん 地名)を落としていました。 司馬懿はそうとは知らず、孔明が陰平、武都に攻め込んだら背後を突こうと考え、 軍を送ります。孔明は伏兵を伏せておき、この軍を挟撃し撃退します。しかしこの戦で張苞が大怪我をしてしまい、養生のため成都に 帰りました。次に司馬懿は陰平、武都を落とした孔明が民心の安定に向かっていると考え、敵の本陣を 襲撃する作戦を立て張こう(ちょうこう)らを背後に回らせます。 しかし孔明はこれも読んでおり伏兵によって魏軍を撃退します。これによって司馬懿は 自分から攻めることをあきらめ、ただひたすら守りを固めました。このころ孔明はそれまでの功により再び丞相に戻りました。 いくら挑発しても魏軍が動かないので孔明は偽りの退却をします。司馬懿は最初警戒して追撃しませんでしたが、 張こうの説得に負け追撃を開始します。 孔明は伏兵と計略によって魏軍に大打撃をあたえます。勝利の勢いに乗ってさらに進撃をしようとした孔明のところに 張苞が死んだという報がもたらされます。そのショックとこれまで休む間もなく戦争を続けてきた疲労が重なって、孔明は血を吐いて倒れます。 今なら前の敗戦に懲りて司馬懿は追撃してこないだろうと考えた孔明は漢中へ退却します。
その後魏では曹真が病から回復しました。曹真は孔明が病に倒れている間に蜀を 滅ぼそうと考え司馬懿と共に蜀に攻め込みます。 しかしこの頃孔明はすっかり病から回復していて漢中で軍事鍛錬を行っていました。 天文を見た孔明はここ数十年来の大雨が降ると思いました。そこでひとまず大軍を漢中で休ませ長雨に備えました。 魏軍が蜀に攻め込むため行軍を続けていると孔明の予想通り大雨が降り始めました。 この雨で魏軍は孤立してしまい、疫病も発生しました。また雨によって道が激流と化し補給物資の輸送もできなかったので、 魏軍は雨がやんだころ退却を始めました。孔明は追撃をせず魏軍が疲れている間にき山をとろうと考え、 軍をき山に向けて斜谷(やこく 地名)と箕谷(きこく)から進軍させました。しかしその途中、箕谷を進んでいた 魏延と陳式(ちんしき)は敵の伏兵に注意してしばらく進軍をひかえるように、という孔明の命令を無視して 進撃しました。当時命令に逆らってもその行動が手柄になればその罪は許される習慣があったからです。しかしこの行動は手柄にならず、先鋒の陳式軍は 司馬懿の伏兵に包囲されほぼ全滅しました。そこで孔明は斜谷に陣をはっている 曹真を攻め大打撃を与え曹真を負傷させます。そして再びき山への進出に成功しました。 魏延と陳式が命令に背いたので孔明はき山で軍法会議を開きます。 しかし蜀には良将が少なく、一人でも罪を問いたくありませんでした。しかしこのままにしておいては諸将が勝手に行動しだす 恐れがあり、そうはいきませんでした。孔明は悩んだ末、四千の兵士を戦死させた陳式は死罪にしました。しかし 五虎将軍亡き後の蜀では魏延の武勇は飛びぬけていました。 孔明は彼を死罪にすることができず、命令を破った罪は免れないが、陳式の軍を全滅から救ったという功を認めるということで 注意だけということにしました。その後孔明は間者から曹真が病気で伏せっているという情報を聞きます。 そこで孔明は曹真が怒りくるうような内容の手紙を降伏兵にもたせて、魏軍の本陣に帰らせました。 その手紙を見た曹真は極度に興奮し、間もなく息を引き取りました。また筆殺です(笑)。それを聞いた魏帝をはじめとした曹一族は 激昂(めちゃくちゃ怒ること)し、司馬懿にこの恨みを晴らすようにいいます。そして司馬懿は 決戦を申し込む手紙を孔明に送ってきます。翌日両軍は出陣し対陣します。この日の戦で孔明は 大勝利を収め魏軍は七割近い兵を失います。蜀軍のまえに風前の灯でした。しかしそんな時、厳しく期限がもうけられている食料部隊 が、期限より十日も遅れてきました。孔明はこの食料部隊の責任者の苟安(こうあん)を規則どおり死罪にしようとします。しかし彼は食料集めを担当している 李厳(りげん)が重用している家来だったので、死罪にしてはいけないという部下の進言で死罪にせず、八十杖の打ちすえの刑にしました。 すると苟安はこれを逆恨みし、夜ひそかに陣を抜け出して魏軍に投降しました。司馬懿は 苟安を成都に帰らせて、孔明が謀反をたくらんでいるという噂を流させました。まったく苟安 の逆切れもいいところです。成都の劉禅はこの計にはまりました。 そしてある日、孔明のもとに勅使がおとずれ軍をまとめて成都に引き返せという勅命を伝えました。 孔明は驚きますが、部下の一人が成都に孔明が謀反をたくらんでいるという噂が流れていると言ったため、 孔明は涙を呑んで成都に引き返しました。孔明は敵の追撃にたいし、日ごとに自軍のかまどの数を増やしていくことで、 司馬懿に兵を多くみせ、それによって用心深い司馬懿は追撃を途中であきらめ 引き返しました。成都に帰った孔明が劉禅になぜ自分を呼び戻したのか聞くと、やはり成都に孔明が謀反をたくらんでいるという 噂がながれていたことがわかりました。調査をしたところ苟安が怪しいということで苟安の自宅に保安隊を送りますが、苟安はすでに 魏に逃げていました。事が落着した孔明はまたすぐにき山に向かいます。
曹えいはもちろん司馬懿を迎撃にあたらせました。孔明はまず兵糧を確保するため ろ城という田舎の城を攻め降伏させます。そしてそこの太守から隴西(ろうせい)地方の麦がよく熟しているということを聞きいたので、 配下武将の数人に城を守らせ隴西に向かいます。しかしそれをよんでいた司馬懿がすでに隴西に おり、守りを固めていました。そこで孔明は姜維らを自分と同じ格好に変装させて、 孔明が普段乗っている四輪つきのイスに座らせ、それぞれのイスを魔人のように変装させた兵士に護衛させました。そして砂嵐の吹き荒れる日、 それらの隊を魏軍に向かわせます。それを見た魏軍はあれは魔人の軍だと驚き攻めるのをためらいまあす。ですが司馬懿が 「あれは孔明の小細工じゃ。討ち取れ」などと言ったため追いかけました。魏軍が追いかけてくると、孔明に変装した武将たちは 砂嵐で視界が悪いのを利用して岩陰に隠れます。そして他の変装した武将が遠くで姿を現します。魏軍はそれに気づかず追い続けますが、もちろん追いつきません。 そのうちあちこちから孔明に変装した武将が現れて、魏軍の兵士たちは司馬懿も含め これを妖術だと思い我先にと逃げ出しました。そして城に閉じこもりました。孔明はそのうちに麦をすべて刈り取りました。 その後軍からはぐれていた蜀兵を捕まえて、前のことが妖術ではないと知った司馬懿は、城壁も低く攻めやすいろ城を攻めようと出陣します。 見張りからこの知らせをうけた孔明は兵を麦野の中に伏せ、城に攻めかかった魏軍を 城外と城内の兵で挟み撃ちにし撃退します。孔明に撃退された司馬懿は援軍を呼びます。 そしてその援軍と最初からいた軍を二つにわけ、一隊はろ城を攻め、もう一隊は蜀境の剣閣(けんかく)を攻めて孔明を孤立させようと 出陣しました。孔明は剣閣は魏延と姜維を守らせます。 ろ城にも魏の大軍が攻めてきました。しかし魏軍は自分たちが大軍ということと、ろ城は小城ということですっかり油断していました。 そしてゆっくり食事を食べていたとき、孔明が城外に伏せておいた伏兵に不意をつかれ、大混乱をおこします。 またこの隊の隊長を蜀軍が討ったため、命令が伝わらなくなり魏兵は右往左往しながらつぎつぎに討たれていき、 魏軍は完膚なきまでに叩きのめされました。勝利に喜んでいる孔明たちのところに食料集めを担当している李厳から 呉が裏切って魏と同盟を結んだという手紙が届きます。 いま呉が蜀に攻め込んだら防げるものなどいないため孔明はすぐに退却します。 司馬懿は最初蜀軍の退却を疑いますが、孔明が、退却した後の空城に兵がまだ残っていると見せかけて退却していったので、 蜀軍の退却が策ではないと考え、張こうに伏兵に注意するように言って追撃させました。 殿軍(しんがり 軍が退却するとき敵の追撃を防ぐ役目)の魏延と関興は張こうに たいして、少し戦っては退却し、もう一人が戦い、少し戦うとまた退却してもう一人が戦うという戦法をとりながら追撃を防いでいました。 張こうは最初のうちは伏兵に注意していました。木門道という道路まできたとき、道の両脇が高い崖にかこまれていたので そこで追撃をやめ、後から来る司馬懿の本軍を待とうとしました。しかしそこに魏延が 現れ張こうを挑発しました。張こうは怒って 魏延を木門道の中まで追いかけました。あるところまで追いかけて、追いつなかった 張こうはこれ以上深入りはやめて引き返そうとします。するとそのとき何かの合図のような怪しい火があがり、張こう軍 が入ってきた道は蜀軍が落とした岩や木によってふさがれました。そして崖の上から一万人ほどの蜀軍の弓兵が現れ雨のように矢を放ちました。 これによって張こうをはじめ木門道に入った魏軍はみなハリネズミのようになって息絶えました。 その後司馬懿がそこに到着しました。司馬懿は 張こうの死を聞くと、知らない間に自分たちが危険地帯へと誘い込まれていると気づき、追撃をあきらめ急いで退却しました。 国に帰った孔明のところに費(ひ)いが劉禅の使者として来て、なぜ兵を引き上げたのかと聞きました。孔明が李厳からの手紙のことを 言うと費いは、「李厳は自分は食料を集め終わったのになぜ丞相は漢中へ引き上げたのか」と言っていたと言います。孔明はこれを 敵の謀略でなければ、食料集めがうまくいっていない李厳が責任を逃れるためにやったのかと考え、自ら成都に行って調査をしました。するとやはり 李厳が責任を逃れるために嘘の手紙を書いていたことがわかりました。まったく困ったやからばかりです。本来なら李厳は死罪でしたが、費いが 「李厳は先帝がわが君を託した重臣の一人であるので死罪だけはお許しください」と言ったので、李厳は官職を奪われ田舎に追われました。 孔明は自分が国をあけている間にいろいろな事件が起こるようになったので、しばらく北伐を延期し内政の充実に力をそそぐことにしました。
そして三年後、国力を充実させた孔明は、今度は魏を討つまで帰ってはこないと劉禅に言って 北伐に向かいました。しかしこのとき関興が死んだという悲報が届きました。魏はもちろん 司馬懿を迎撃にあたらせました。そして両軍は渭水をはさんでにらみあいました。 司馬懿が隴西地方に兵を送って守らせたと聞いた孔明は隴西を襲うと見せかけて、 敵が隴西に救援に向かったところで手薄になっている本陣を襲うという作戦をたました。しかし司馬懿にこの計を 完璧に読みとられ、孔明は大きな損害をだしました。この頃から、昔から反骨の相があった魏延が孔明の作戦にたいし て不満を言い出します。戦に敗れた孔明のところに成都から用命をおびた費いがやってきました。そこで孔明は費いを 呉に、魏を攻めてもらうための使者としておくりました。孫権は 孔明からの手紙を読むと、「確かにいまは機は熟した。」といって三路より三十万の兵で魏に攻め入るという約束をしました。 その頃孔明のところに魏軍のてい文という武将が降伏してきました。降伏の理由を聞くと、司馬懿が自分に 代わって後輩の秦朗(しんろう)という将を重用し始め、それに少し愚痴をこぼしたところ、自分を殺そうとしている気配がしてきたといいます。 そのとき蜀軍の陣前に魏軍の秦朗と名乗るものが現れ、てい文を返せと叫びました。孔明はてい文が自分のほうが秦朗 よりも武勇が上だといったので、一騎打ちをして勝ったら降伏を認めるといって一騎打ちをさせました。するとてい文は秦朗と名乗る武将をあっという間に 斬り捨てました。司馬懿は軽々しく、人を重用するような人物ではなく、その司馬懿が 重用する人物ならよほど武芸が優れているに違いありません。その秦朗がてい文にあっという間に倒されたのは、さっきの武将は秦朗ではないという証拠の ようなものでした。孔明は帰ってきたてい文が討ち取った者の首を見せたのにたいし「私が秦朗を知らぬと思っているのか(もちろん本当は知りません)。 そなたの降伏は偽りであろう。正直に申せば命だけは助けてやる。」といいました。てい文が降伏は偽りであることを認めたので孔明は彼を檻にいれました。 後日、孔明はてい文に、「降伏が認められたので明晩合図の火を上げて、内から蜀軍を攻める」といった内容の手紙を書かせ、 家来の一人を農民の姿に変装させ、その手紙を持たせ司馬懿に渡させました。 手紙を受け取った司馬懿は、手紙が確かにてい文の文字で書かれていたので手紙を信じ 秦朗を先鋒に命じ、自分は後軍となって蜀陣へ向かいました。そしててい文からの合図(孔明がはなった)があるや先鋒の秦朗軍は 蜀陣に攻めかかりました。しかし陣には蜀兵の姿は見当たらず、すぐに罠だと思った秦朗は急いで引き返そうとしますが、すぐに回りから蜀軍 が現れました。秦朗はこの戦いの最中討ち死にしました。そこに司馬懿が到着し秦朗軍の加勢に向かおうとしますが そこにも伏兵がおり、司馬懿の軍はたちまち大混乱に陥り、あわてて引き返しました。 魏軍の被害は相当なものでした。その後司馬懿は再び砦に閉じこもり、 ひたすら守りを固め蜀軍の食糧難を待つ作戦に切り替えました。いくら挑発しても司馬懿は動きませんでした。 ひたすら守りを固める魏軍を討つには時間がかかります。孔明はどうやって食料を国から陣まで運んで来させればいいか悩んでいました。 蜀から外へ出る道はどれも険しく、輸送がなかなか思うようにいかなかったのです。そんなある日、孔明が土地に詳しいものに 案内させながら辺りの地形を見ていると、入り口が一つであとは山に囲まれた平地を見つけました。孔明はいい場所を見つけたといって大工千人ほどをその谷にいれ、 木牛流馬と名づけた新しい運輸者を作らせました。この木牛流馬によって蜀軍は大量の兵糧運輸を可能にし、 司馬懿の、蜀軍の兵糧難をまつという作戦は根底から覆りました。そこで司馬懿は 蜀軍の輸送隊を襲い、この木牛流馬を数台奪い、自軍の兵糧運輸にも役立つと考え、大工に命じてまったく同じものを作らせました。 しかしこの木牛流馬には仕掛けがあり司馬懿はそれに気づかずに同じものを作ってしまいました。 魏軍が木牛流馬で兵糧を運び始めたことを知った孔明は部下に命じて食料隊を襲わせます。まず、王平の隊が食料部隊の護衛隊を蹴散らし、 木牛流馬を奪います。それを聞いた魏軍が砦から出てきて追ってきたので、王平隊は木牛流馬の口の中の舌を回して逃げ出します。 魏軍は蜀軍を追撃せず、まず食料を砦まで運ぼうとしますが木牛流馬は王平隊が舌を回したために車止めが働き、まったく動きません。 魏軍の兵士はそうとは知らないので、なぜ動かないのか分からず混乱していました。そこに魔人の姿に変装した、蜀軍の別の隊が現れます。 迷信深かった当時の兵は木牛流馬が動かないのは、魔人の魔力のせいだと考え逃げ出しました。蜀軍は魏軍が放り出した木牛流馬の舌を回して 車止めを解除し、怖がる魏軍の兵士の前で悠々と食料を運び始めました。しかしこの魏軍の将の郭淮(かくわい)は、なんとなくおかしいと思い、 兵たちに兵糧を取り返すように命じて魔人軍に攻めかかります。そのとき左右から姜維軍と魏延軍が現れ、先ほど逃げていった王平軍も 引き返してきて、郭淮軍を三方から攻めます。その知らせを聞いた司馬懿は、砦から出て郭淮軍救援に向かいます。 ですがその通路には廖化(りょうか)の隊が待ち伏せており、司馬懿軍は不意を突かれて混乱したため司馬懿は 逃げ出します。この戦によって蜀軍は魏軍にかなりの打撃を与え、大量の食料も手に入れました。
その頃、ついに呉が三路から魏に 向かって攻め始めました。魏帝曹えい は今司馬懿のほうが崩れては、魏 は崩壊してしまうので、司馬懿に陣を出て戦わないように使者を送り自ら出陣しました。 曹えいは平和になれていて油断していた呉軍に夜襲によって大打撃を与えます。その後呉軍は曹えいの軍を挟み撃ちにする計画を 立てますが、間者が魏軍に捕まってしまい作戦が筒抜けになったため、それ以上は無理をせず呉に引き返しました。 その頃蜀陣では魏延の孔明に対する陰口がますますひどくなっており、孔明はこれ以上は 蜀の将来のためにも放っておけませんでした。そこで魏延に親しい 兵士にも反乱を起こさせないように、彼を殺す作戦を考えました。映画などでよくある暗殺です。孔明も結構恐ろしいことを考えますね(笑)。 孔明の場合はただ魏延を殺すだけでなく、司馬懿も一緒に殺そうとしますが、 今から書くとおり一緒に(笑)失敗します。まず孔明は馬超の弟の馬岱(ばたい)に、 上方谷(じょうほうこく)というところに地雷や火薬を埋めさせました。それができた孔明は、諸将に作戦をさずけ、 自分は上方谷に向かいました。司馬懿はそれまで陣からまったく出ずにいましたが、 蜀軍が兵を分散したと聞いた諸将に説得され、部下に出陣の許可を与えました。魏軍は何度も蜀軍を攻めそのたびに勝ち、 蜀兵を捕虜にしました。これは孔明の作戦によって蜀軍がわざと負けていたからです。そのうち司馬懿も 蜀軍が弱いと思うようになります。司馬懿は孔明を討たなければ蜀軍を討ったことにはならないので、 ある日敵の捕虜から孔明の居場所を聞き出します。そして全軍に総攻撃を命じます。まず司馬懿は き山の蜀軍を攻めます。そして蜀軍のほとんどがき山に集まったとみた司馬懿は 一軍を率いて孔明のいる上方谷へと攻め入ります。そこには狙い通り蜀軍はほとんどおらず数百人の魏延軍がいるだけでした。 魏延は孔明の作戦通り、目印に向かって逃げ出します。勢いづいた司馬懿軍が追撃していると また魏延が立ち止まって待っていました。司馬懿は 魏延がわずかな兵で何度も勝負を挑んでくるので不審に思って辺りを見渡すと、あちこちに柴がつんでありました。 司馬懿はとたんに罠だと気づき引き返そうとしますがすでに時遅し。まず入り口が大岩によってふさがれ、 次に火矢が飛んできて辺りに埋めてあった地雷や火薬に引火して大爆発を起こし、上方谷のなかは火炎地獄となりました。 司馬懿はどこにも逃げ道がないのであきらめて、私のかなう相手ではなかったとつぶやきます。 また魏延も逃げ出しておらず、孔明が日ごろの自分の行為を根に持って自分を殺そうとしているのだと気づきますが、 どうしようもありませんでした。しかしこのとき、突如大雨が降り出し上方谷の中の火は消え司馬懿も 魏延も助かりました。何とか助かった司馬懿は陣に引き返そうとしますが、蜀軍に よって渭水南岸の陣は奪われており司馬懿は南岸の陣を捨てて、北岸の陣に引き上げました。 司馬懿はなんとか助かったとはいえ、このときの魏軍の損害は大変なものでした。その後蜀陣では、 味方に殺されそうになった魏延が陣内でしきりに怒声を放ち不穏な空気がながれていました。そこで孔明は 魏延を呼び、なぜ怒っているのか聞きました。魏延は当然、孔明が自分を殺そうと したからだと答えます。そこで孔明は馬岱を呼びます。そして馬岱に「なぜ魏延将軍がまだ谷のなかにいたのに火を放った。 私は火を放つとき注意しろとあれほどいったではないか。」といって馬岱の階級を剥奪し五十杖の刑を与えます。これで魏延 は何も言えず何とかおさまりました。その後孔明は馬岱のところに人を送ってこう伝えました。「近頃陣内で魏延が 自分の作戦を批判し陣内を煽動していた。そのため今回の戦で自分は彼を除こうとしていたが、それが失敗に終わってしまった。 今魏延に反乱を起こされては蜀軍は崩壊してしまう。何の罪もない馬岱に恥と汚名をきせたのは 魏延の謀反を防ぐためで、何とか耐えてほしい。その代わり他日この功を第一として発表し 馬岱の恥を注ぐと約束する。」 忠義の心の厚かった 馬岱はこれでおさまりました。しかし魏延は 馬岱に 罪を着せたのを演技ではないかと感じ、 馬岱を自分の家来にしたいといいだしました。 馬岱は蜀 のためにとこれにも耐え、魏延が謀反をしないように監視するため家来になりました。 その後孔明は五丈原(ごじょうげん)に陣を移しました。しかし司馬懿は防戦一方で まったく挑発にのりません。孔明は女性の服を送って挑発しましたがそれでも司馬懿は 陣を出ませんでした。そんなとき孔明のところに費いがやってきて魏に攻め入った呉が 引き上げたということを報告しました。そのときのショックと、それまで陣内でのかなり細かい仕事まで自分でやっていた疲労が重なり 孔明は病に倒れました。その後天文を見て自分がもう長くないと悟った孔明は、姜維に 自分のこれまでの経験から学んだ兵法などを記した兵法二十四篇をわたします。馬岱には魏延が謀反を 起こしたときにどうするかを教え、側近の楊儀(ようぎ)には魏延が謀反を起こしたときに とるべき行動を記した書を入れた袋をわたしました。そして最後の日、楊儀に遺書をわたし、「引き上げるときに魏が 追撃してきたら、こんなときのために作らせておいた自分の木像を相手に見せれば、敵は驚いて追撃をやめるだろう。」といいました。 そして、これで何もいいおくことのなくなった孔明は、外に出て夜空を見上げながら、息を引き取りました。このとき孔明五十四歳でした。