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曹操孟徳<そうそう・もうとく>




性は曹、名は操、字は孟徳。魏(ぎ)の基礎を築いた、中国史でも屈指の英雄。
曹操の祖父は四人もの皇帝に仕え重用されるなど、曹家は名家でした。曹操は子供のときから頭がよくきれ、学問では一を聞いて十を 知るという鬼才ぶりでした。その一方で、猟がすきで獣を追ったり、不良を集めてけんかをしたりしていました。 あるとき、曹操は友人にいわれて有名な人相見のところへいきました。人相見は「おぬしは平和なよには能臣だが、ひとたび乱世になれば 奸雄[奸知(よこしまな知恵)にたけた人]になる」といわれました。治世の能臣、乱世の奸雄です。 その後曹操は二十歳で役人になり、黄巾賊(こうきんぞく)の討伐などでどんどん出世していきました。

都の混乱に乗じて洛陽(らくよう 漢の都)に乗りこんだ董卓(とうたく)は権力を利用して暴政をふるっていました。 曹操はそんな董卓を暗殺しようとします。しかし失敗し、逃亡の身となりました。曹操は郷里の陳留(ちんりゅう 地名) に帰って、地方に董卓討伐の檄(げき 自分の主張を述べともに戦ってもらう。 ここではともに董卓を討とうということ)をとばしました。董卓を怨んでいた 諸侯は続々とこの討伐軍に加わり、数十万の軍に膨れ上がりました。董卓洛陽を捨て、長安(ちょうあん 地名)へ逃げました。 曹操はこれを追撃しますが、他の軍は被害を受けたくないため、ついてきませんでした。そのため曹操は自分の軍だけで 董卓と戦うことになり、手痛い打撃を受けました。何とか命だけは助かった曹操は討伐軍を ぬけ、国に帰りました。その後、長安董卓呂布(りょふ)に殺されました。 黄巾賊の残党は董卓がいなくなると、また暴れ始めました。朝廷は曹操にこの黄巾賊の残党 を討つように命じました。曹操はあっという間に黄巾賊を討伐しました。曹操の軍には、降伏してきた黄巾賊の兵や 若者が加わり百万近い兵力になりました。曹操は色々迷惑をかけた父にそろそろ親孝行をしようと、招きの手紙を送りました。 しかし父は曹操のもとへ向かう途中に徐州(じょしゅう 地方名)陶謙(とうけん)の兵に殺されました。 怒った曹操徐州に攻め込みます。しかしその留守の間に領地が呂布に襲われ奪われてしまいました。 曹操は領地に引き返し呂布と対決します。その戦の途中にイナゴの大群が発生したため食料が 無くなり、曹操軍は戦を一時休戦し、他の土地に向かいました。そして体制を建て直し、再度呂布を 攻め蹴散らしました。そして曹操長安から逃げてきた皇帝を保護し、政権を握りその力は絶大なものになりました。 曹操の回りには、袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)呂布張しゅくなどたくさんの敵がいましたが、 曹操はそれらの強敵をことごとく討ち北方の覇者になりました。

次に曹操は南方制覇をもくろみます。まずは新野にいる勢力は小さいもののあなどれない最大のライバル 劉備を討つため、十万の兵を夏候惇(かこうとん)に与え 攻めさせました。しかし劉備には天才軍師諸葛亮(しょかつりょう) がついていて、夏候惇は惨敗を喫します。そこで曹操は自ら五十万の兵を率いて南方制覇に向かいます。 劉備は江夏(こうか)に取り逃がしましたが、荊州(けいしゅう 地名)を降伏させました。 曹操は次の目標、の君主孫権(そんけん)に「ともに劉備 を討とう」という手紙を送りどうでるかをみました。すると孫権劉備と 同盟し、徹底抗戦の構えをみせました。が従わないとあらば滅ぼすしかないと攻め込んだ 曹操でしたが、連合軍の火計によってあっという間に三十万の兵を失いました。そして敗走に敗走をかさね自分の城までたどり着いたころには、 戦に参加した兵は討たれたか、降伏したかでほとんど残っていませんでした。この赤壁(せきへき)の戦い は、正史では諸葛亮らの活躍は描かれておらず、曹操軍に疫病が発生し、火をつけられたとしか書いていません。 まあ正史正史で結構びいきなので真実は私にはわかりません。曹操は体制を立て直すため都に向かいます。 荊州のなどの要地には優秀な将を残していきましたが、荊州は劉備にとられてしまいました。 その後、荊州でこぜりあいがあり、の 大黒柱周瑜(しゅうゆ)諸葛亮の計略にはまって死にました。 また劉備はもう一人、天才軍師ほう統を副軍師として迎えました。 このままでは荊州劉備は大きな力を持ち、天下統一の最大の障害になってしまいます。 曹操はもう一度南方制覇に向かおうとします。しかしその前に(都を空にしなければならないので)西涼(せいりょう 地方名)にいる 馬一族を倒しておく必要がありました。曹操勅命(朝廷が発する命令)を使って馬騰(ばとう)らを都に呼びよせ殺害しました。 西涼にはまだ馬超(ばちょう)が残っていましたが、一人では何もできないと思い曹操は南方制覇に向かいました。 曹操西涼韓遂(かんすい)を見方と思っていましたが、彼は馬騰の義兄弟の仲でした。 そして韓遂馬超と手を握りに二十万の大軍で攻めてきました。 曹操は急いで引き返し防衛に向かいますが、曹操の本軍が到着する前に、長安潼関(どうかん 城名)を落とされました。 曹操西涼軍をあまくみていて、長安潼関もすぐに取り返せると思っていました。しかし韓遂馬超 率いる西涼軍は強く、曹操は苦戦しました。何とか西涼軍を撃退しましたが馬超は取り逃がしてしまいました。

その後しばらくしてから、曹操に攻め込みます。しかし に着くまでに時間がかかり、は万全の体制をしいていました。 また曹操赤壁の戦いの不覚を繰り返さないようにと消極的になっていて、戦場では敵に裏を かかれっぱなしで、いいとこなしで都へ引き返しました。その後劉備がついに 蜀をとってしまいます。いよいよ劉備が強大になってきたので、 曹操はまずの間あたりの土地、漢中(かんちゅう 地方名) をとるべく侵攻します。そして漢中を平定します。そのままへ攻め込もうかと考えていた 曹操でしたが、から荊州の一部を返してもらったが 三路から攻めてきました。曹操はとりあえずは後回しにしてとの 戦にのぞみます。この戦で両軍は大きな被害をだします。和睦(わぼく 戦争をやめる)の使者を送ってきたので、 曹操に毎年の貢物を誓わせて都に帰りました。しばらくして都で反乱が起こります。 曹操はこの反乱を鎮圧しますが、そのすきに劉備漢中に攻めてきました。 曹操はみずから漢中の防衛にむかいますが、諸葛亮の計略の前に敗れ大きな損害をだし、 漢中は劉備にとられてしまいました。そこで国に帰った曹操に 使者を送り、同盟を組みます。それを知った諸葛亮の命で、関羽 が攻め込んできました。軍神関羽の前に大きな被害をだしますが、荊州をとったために形勢は逆転し、関羽を捕らえ処刑しました。 関羽の恐怖から開放された曹操でしたが、このころから病に倒れそのまま没します。 政治だけでなく文芸にも非凡な才能を発揮し、一代で中国の三分の二を制覇した曹操はまさに千年に一人出るかの風雲児でした。


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