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劉備玄徳<りゅうび・げんとく>




姓は劉、名は備、字は玄徳。中山靖王劉勝の子孫(漢の第六代の皇帝の子供)、つまり皇帝の血を引いていました。
幼い頃に父親を亡くした劉備は、母とともにむしろを売って暮らしていました。そのうち世は
黄巾賊(こうきんぞく)の大乱によって 乱れ始めました。劉備は乱れた世の中を正すため、彼の人柄に惚れ義兄弟になりたいといってきた、関羽張飛と、桃園の誓いを交わして義兄弟になり、兵を挙げました。劉備の軍は農民で編成された 義勇軍(ぎゆうぐん 戦争などのとき有志人民によって編成された戦闘部隊)でしたが、何度も黄巾賊との戦に勝ちました。 そしてついには黄巾賊のリーダーの張角の弟で彼の右腕であった張宝を討ち取りました。 しかし、これだけの大功をたてながら劉備の軍は官軍(国の軍隊 ここでは漢の国)でないことから粗略にされ、恩賞は片田舎の警察署長でした。 その村をうまく治めていた劉備でしたが、領地の視察に来た督郵(とくゆう 官名)が賄賂を求めてきました。劉備が断ると督郵劉備が罪人であるという書状を、都に送りました。まさに超悪徳役人です。これに怒った張飛督郵を殴りました。 劉備はとめようとしますが、関羽が「自分たちの目的は、片田舎の警察署長になって悪徳役人の機嫌をとることではなく、 天下万民の苦しみを救うことだ。」といったので改めて考え、官職を捨てて逃亡しました。

その頃、洛陽(らくよう 漢の都)の都では政治の乱れから一地方の将軍であった 董卓が政治の実権を握りました。彼はそれをいいことに、悪行の限りを尽くしました。 それにたいし、劉備の生涯のライバルになる曹操(そうそう)が各地の将軍に、董卓を 討とうという檄(げき 自分の主張をのべ相手を味方につける)をとばしました。各地の将軍も董卓の 悪行を怨んでいたため、このは成功し、数十万の董卓討伐軍が編成されました。逃亡していた劉備たちは、この討伐軍に参加していた 公孫さん(こうそんさん)の軍に加わりました。討伐軍の強さに驚いた董卓は都を捨て長安に 逃げました。董卓が逃げたことで、諸将はそれぞれの国に帰りました。その後、公孫さんに 何度か協力した劉備は彼のはからいで平原の相(地方の長官)に任命されました。その後長安(ちょうあん 地名)では董卓呂布に殺されました。董卓がいなくなると、各地で黄巾賊の 残党が暴れだしました。これを朝廷からの命令で鎮圧した曹操は力を蓄え初めました。 そんな曹操は父親を徐州(じょしゅう 地方名)の兵に殺されたため、百万の兵で徐州に攻め入りました。 劉備は復讐のために血を流すのはだめだと考え、徐州に救援として駆けつけました。ほとんど勝ち目はありませんでしたが、 曹操は領地を空にしていたため、呂布に領地を攻められました。 曹操は急いで引き上げました。その後、劉備は病に倒れた徐州太守陶謙(とうけん)に、「国をついでほしい。」 といわれ、最初は戸惑いましたが農民たちからも太守になってもらいたいといわれたため、徐州太守になりました。 その後曹操に敗れた呂布劉備を頼ってきました。 まわりは反対しましたが、劉備呂布を受け入れました。 曹操董卓が逃げたときに廃墟となった都で暮らしていた 皇帝からの要請をうけ、皇帝を保護し許昌(きょうしょう 地名)に都を移し、政治の実権を握りました。実権を握った 曹操は、劉備呂布が一緒になったのを警戒し、 勅命(朝廷の命令)として劉備南陽(なんよう 地名)袁術(えんじゅつ)を討てと命令します。劉備曹操の 策略とわかりながらも、南陽に出陣しました。しかしその留守中に呂布が恩を忘れ徐州を奪ってしまいました。 ですが呂布はいろいろと言い訳をして劉備と仲直りし、劉備呂布と逆の立場になりました。しかしその後、呂布曹操と一緒に彼を討とうとしていたことがばれ、攻められた劉備は兵も少なく戦に敗れました。 敗れた劉備曹操を頼りました。そして劉備曹操とともに 呂布を討ちました。

呂布を討った後、劉備曹操とともに都に行き、と会いました。都では曹操の監視の もとで生活を送りました。そんな時袁術が兄の袁紹(えんしょう)の元に向かおうとしていることを知った劉備は、 曹操に「自分に袁術を討たせてほしい」と言いました。曹操 から袁術討伐の兵を借りた劉備は、袁術軍を撃破し、袁術を戦死させました。曹操 はそんな劉備を警戒し、劉備に同行させた配下の車冑(しゃちゅう)に、劉備を殺すように命じました。 曹操の配下の陳登(ちんとう)劉備を尊敬していました。劉備暗殺の命令を知った陳登関羽張飛に知らせました。 すると二人は劉備に相談せず車冑を殺してしまいました。劉備は、自分にまだ力が無いのに曹操を 敵に回してしまったのでどうしようか考えました。すると陳登は「この国でただ一人曹操と互角に戦える 袁紹を頼ればよい」といいました。劉備は前に袁紹の弟の袁術を戦死させていたので、助けてもらえるか心配でしたが、 使者を送りました。使者の懸命の説得で袁紹曹操を討つための兵を出陣させました。 曹操は自身は袁紹との対決に向かい、劉備には五万の兵を向かわせました。 その五万の軍の将は、はっきりいって無能でした。劉備はその二人を生け捕りにして、城内でもてなし「自分は曹操様 にたてつく気はない」などといって、バカな(←いいすぎ?)二人を説得し帰らせました。 その頃、曹操袁紹との戦は 部下に任せて都に帰っていました。曹操は、二人が劉備にうまく丸めこまれて帰ってきましたが、 最初から二人には期待していなかったので今度は自分で行こうとします。もうすぐ冬だったので、曹操はとりあえず春まで待って、 それから攻めることにしました。そして春になり曹操は二十万の兵を率いて劉備のいる 徐州に攻めてきました。劉備の今の力では勝てるはずもないので袁紹に使者を送りました。劉備の使者から話を聞いた袁紹の家来は 「曹操が都を空にしている間に攻め入るべきです」といいましたが、この袁紹もバカ(笑)で、 子供の病気を理由に「気が乗らない」などといって兵を動かそうとはしませんでした。劉備袁紹の助け無しで 曹操と戦うことになりました。曹操軍徐州に着いた日の夜、劉備曹操軍に夜襲を かけました。しかし曹操はこれを読んでいて、劉備軍は四方から攻められて敗走し、 がこもっていた下ひの城以外の城もすべて曹操軍にとられてしまいました。その後下ひの城も落とされ、 関羽は恥を忍んで曹操に降伏します。劉備は 「なにかあったら自分をたよられよ」という袁紹の言葉を信じて袁紹のいるき州(地方名)に向かっていました。 そしてなんとか袁紹のもとにたどり着きました。そして劉備袁紹とともに曹操 との戦に臨みました。その戦の最中、関羽曹操軍にいることを知った劉備は自分も生きているという手紙を送りました。 手紙を見た関羽はすぐに劉備のもとに向かいました。関羽き州の近くまで来たことを知った劉備き州から抜け出す方法を考えました。そして袁紹に 「袁紹様と曹操の実力は互角です。ですが荊州(けいしゅう 地方名)劉表が味方につけば 袁紹様の勝利は間違いありません。劉表と私は家系をさかのぼれば親族にあたります。 なので私が行けばよい返事をしてくれると思います」といって袁紹を説得しました。そして荊州への使者として誰にもあやしまれずに き州を出ることに成功しました。そして関羽と再開しました。 そして汝南(じょなん 地名)というところにある古城に、張飛が身を潜めていたので、そこに向かいました。

その後曹操袁紹をはじめとして、自分の敵となるものを次々と滅ぼしました。 曹操に最大のライバルとして警戒されていた劉備曹操に攻められ、 荊州劉表のところに身を寄せていました。劉表はしだいに劉備を深く信頼するようになりました。 そして劉備劉表から新野というところの統治を任せられました。その後も劉表劉備への信頼はますます深まり、 国の世継ぎのことも、劉備に相談するようになりました。しかしそれをよく思わないやからもいました。その代表が劉表の妻の兄で荊州の軍を 任されていた蔡瑁(さいぼう)でした。やつ(←やつって)はこのままでは劉備が大きな力を持ち、荊州をのっとろうとするのではないかなどといって (本当は劉備劉表に自分の妹が産んだ子ではなく、劉表の前の妻が生んだ子を後継ぎに勧めていたからです)、 劉備を何度か暗殺しようとしました。劉表の家来に伊籍(いせき)という人がいて、かれは劉備が好きというかそんな感じで、 蔡瑁らが劉備を暗殺しようとしているのを知るといつも劉備に知らせてくれました。 そのため劉備はいつも間一髪のところで逃げることができました。劉備蔡瑁が自分を殺そうとしていることを確信したので、そのことを 劉表にいいました。蔡瑁は死刑にはなりませんでしたが、謹慎となりました。 少し前後しますが、劉備蔡瑁が自分を暗殺しようとしていること を知って、逃げていたときのことです。なんとか逃げ切った劉備は見知らぬ道を歩いていました。すると童子(子供)がいたので道をたずねようとすると、 童子は初対面なのに劉備の名前を知っていました。劉備がなぜ自分の名前を知っているのか聞くと、童子は「私の先生がよく劉備様のお話をしていて 姿かたちがそっくりだったからです」といったので、劉備はその先生とあわせてもらうことにしました。 その人物は司馬徽(しばき)(別称 水鏡先生)という名前で、かれは劉備に「あなたには先を見抜く力を持った家来が必要だ」などということをいいました。 それ以来劉備は人材を求める気持ちが強くなりました。 ある日劉備新野城内を歩いていると、大きな声で歌を歌っている ひとにあいました。そのうたの歌詞が気になった劉備は、その人を酒にさそいます。その人物は徐庶(じょしょ)という人で、司馬徽に「劉備殿に 仕えるがいい」といわれて、わざとめだつようにしていたといいました。劉備は彼を軍師として迎え入れ、自分の兵をすべて任せることにしました。 徐庶軍師として迎えられると、すぐに兵の鍛錬をはじめました。新野の近く(距離的には遠い)にあるはん城にいた 曹操の弟曹仁(そうじん)はこれを警戒して、南方制覇の第一歩として新野を攻撃することにしました。 新野の兵は二、三千、はん城の兵は三万近くでしたが、徐庶の計略で劉備軍曹仁軍を打ち破り、はん城まで手に入れました。 曹操徐庶のすごさを目の当たりにすると、彼がほしくなりました。そこで曹操徐庶の母親を都に呼びました。徐庶は評判の親孝行ものでした。曹操徐庶の母親の字を真似て、都に来てほしいという 手紙を書きました。徐庶はこれを母親の手紙と信じてしまい、曹操のところに行くことにしました。 徐庶曹操のもとに向かうとき、劉備にこれまでのことに感謝を述べました。そして劉備に、 諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)なるものを たずねるように言いました。いよいよ孔明(こうめい)の登場です。劉備は三度目の訪問で孔明 に会い、自分を助けてくれるよう必死に頼みました。孔明劉備の情熱に動かされて、 劉備を助けることにしました。有名な三顧の礼です。

その頃曹操は南方攻略のための軍議を毎日のように開いていました。そして 劉備孔明を軍師に迎えたことを知り、このまま放っておくわけにいかず、 南方制覇の第一歩として劉備を攻めることにしました。 曹操は十万の兵を夏候惇にあたえて、 新野を攻めさせました。劉備は孔明の作戦でこれを撃破します。すると曹操 は今度は自ら五十万の兵を率いて荊州に攻めてきました。このとき荊州劉表は危篤に陥っていました。 劉表劉備荊州をついでほしいと頼みますが、劉備は恩人の不幸を自分の喜びに変えられないと、断ります。 劉表はしかたなく、長男の劉g(りゅうき)に国を継がせるように劉備に頼みました。しかしそれを知った蔡瑁は、 一時荊州の東のほうの江夏(こうか 地名)に行っていて、父の危篤を聞いて帰ってきた劉gを、 劉表にあわせずにいろいろ口実を作って追い返しました。そして劉表が死ぬと遺言書を偽造して、自分の妹が産んだ子の劉j(りゅうそう)を 後継ぎにしてしまいました。劉備の臣下は蔡瑁を討って荊州をとるべきだといいますが、劉備はここでも断ります。 そうしているうちにどんどん曹操は南下してきました。そして荊州蔡瑁は戦わずして 曹操に降伏しました。荊州蔡瑁に降伏してしまったので、劉備は民衆を連れて江夏に向かいました。 途中曹操軍に何度も襲われますが、なんとか江夏にたどり着きます。 荊州を支配した曹操との国境に全兵を配置して脅しました。 そしてともに劉備を討とうという書状を、の君主孫権に送り、 彼の態度を見ようとしました。孫権は臣下の魯粛劉備のところに使者として 送りました。孔明はこの訪問を予期していて、魯粛が来ると 「自分はを戦わせるために、に行ってまいります」と劉備に言ってに向かいました。 そして孔明の活躍で、三国時代一の対戦といえる赤壁(せきへき)の戦い が起こり、孫権劉備の連合軍は百万の曹操軍を破りました。 そして劉備曹操軍の主力がいなくなた、荊州城などの城をうまく手に入れました。 さらに荊州の南部も制圧し荊州全土を手に入れました。 その後、劉備孫権の妹と政略結婚しました。これは 孫権劉備を殺すための作戦でしたが、失敗します。 詳しくはコチラ。また劉備ほう統副軍師として迎えました。

張松はこれからのは今の君主では 守りきれないと考え、誰か適任はいないか探していました。初めは曹操に会いますがその横暴さに失望します。 そこで、張松は仁義の噂高い劉備にあいに荊州へやってきました。劉備張松をもてなしました。その三日間で劉備の 人柄に感心した張松は、劉備の地図をわたし、「をとってそこから 曹操の野望を砕いてください」といって帰りました。劉備は最初、同族の劉璋(りゅうしょう)が治める を攻めるのをためらいますが、孔明らの 再三のすすめでに攻め入りました。 この戦いで劉備ほう統を失いますが蜀を平定します。劉備蜀平定に危機感を抱いた 曹操は、まずへの入り口である漢中を攻めて平定します。 そこで劉備は前からが言っていた荊州を返せという要求に対して、荊州のうちの三郡を返しました。 それと引き換えにを攻めてもらいました。 この戦は引き分けに終わります。その後の都で反乱が起こります。曹操 はこれを平定します。劉備は今なら曹操は都を空にできないだろうと考え、漢中に攻め入ります。 劉備は孔明指揮のもと漢中を平定しました。 そして劉備孔明らのすすめで漢中王を名乗ります。

曹操劉備の勢力増大に対し、と同盟を組みました。 そして関羽が守る荊州を攻めます。 関羽陸遜(りくそん)の演技にだまされ、荊州城を守らせていた兵をとの 戦に回してしまいました。その隙に荊州城を奪いました。関羽 は奪い返そうとしますがかなわず、呉軍に捕らえられ打ち首となりました。劉備はショックで寝込みました。そして関羽 の仇を討とうと言い出します。このときは孔明の説得でおさまりました。その後では 曹操が没し、長男の曹丕(そうひ)があとをつぎました。 その曹丕漢帝から帝位を奪い 皇帝を名乗りました。劉備はこれを認めないという意味で同じく皇帝を 名乗りました。帝位についた劉備はまた関羽の仇を討とうとします。一度は孔明の説得でおさまります。 しかしもう一人の義弟張飛の頼みなどもあった劉備は、孔明 に「関羽とは若き日から苦労をともにしてきた。関羽の仇討ちは男の約束としてやりたいのだ」 と言ってついにに向けて出陣します。しかしその矢先、張飛が 部下に殺され、その犯人はに亡命しました。劉備はますますを 討つという決意を強くしました。劉備は最初は戦を有利に進めますが、陸遜の 火計によって壊滅します。呉軍は引き上げましたが、劉備孔明をはじめ臣下の忠告を聞かず に攻め入り大敗を喫し、多くの将兵を失ったことを後悔しました。そしてその心労から危篤に陥りそのまま息を引き取りました。 このとき劉備63歳でした。民を愛し民のための世をめざした劉備でしたが、志半ばにしてこの世を去ってしまいました。


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